大西瀧治郎

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大西瀧治郎(1891年-1945年)[編集]

おおにし たきじろう。大日本帝国海軍の軍人。組織的な体当たり自爆攻撃である特別攻撃隊の編成、出撃命令を初めて発した人物。

  • 「特攻は統帥の外道である」
    常々の持論だったが、戦局の悪化で持論を貫けずむしろ特攻を推進することとなった。
  • 「死ぬときはできるだけ苦しんで死ぬ」
    この言葉どおり、介錯無しの割腹自殺を遂げ、15時間あまり苦しんで死亡した。

遺書[編集]

8月15日の正午、大西中将は終戦の玉音放送を、空襲で焼失していた海軍省・軍令部の焼け跡の広場で聞いてから、目黒の雅叙園(当時、海軍病院の分室)に入院している兵学校同期生で海軍次官の多田武雄中将を見舞いに行ったり、軍令部の部員達と夜遅くまで最後の集まりをやっていたと言われている。南平台の軍令部次長官舎に帰ったのは深夜となり日付が変わって16日だったのでは、と当時の人々に推測されている。自決の場所は寝室であった。
中将の遺書の入った封筒には、「八月十六日一四四五自刃す」と書かれていた。
※ 遺書は毛筆黒字、縦書き。 改行、用字、送り仮名は原文のママ。句読点はなし。「矜恃」の「矜」の字が「衿」と誤記されていた。

  遺書
特攻隊の英霊に曰す
善く戦ひたり深謝す
最後の勝利を信じつゝ肉
彈として散華せり然れ

共其の信念は遂に達
成し得ざるに至れり
吾死を以て旧部下の
英霊と其の遺族に謝せ
んとす

次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利
敵行為なるを思ひ
聖旨に副ひ奉り自
重忍苦するを誡とも

ならば幸なり
隠忍するとも日本人た
るの衿持を失ふ勿れ
諸子は國の寶なり
平時に處し猶ほ克く

特攻精神を堅持し
日本民族の福祉と世
界人類の和平の為
最善を盡せよ
海軍中将大西瀧治郎

八月十六日 大西中将
富岡海軍少将閣下
御補佐に対し深謝す
総長閣下にお詫び申し上げられたし
別紙遺書青年将兵指導
上の一助ともならばご利用あり
たし
         (以上)

遺書本文は5枚の紙に分けて書かれている。区切りの部分を空白行で示した。軍令部作戦部長の富岡定俊少将に宛てた1枚は、遺書本文の5枚よりも小さな字で、細字の筆で書かれている。

上記の遺書(計6枚)は、巻物の形に表装され、2011年現在は靖国神社遊就館が所蔵している。

本テキストは、「特攻の真意-大西瀧治郎 和平へのメッセージ」300頁-301頁、同書口絵の遺書の画像による。

この遺書のほかに、淑恵夫人宛ての「遺言」と二つの辞世の句が残された。

辞世の句[編集]

  • 之でよし百萬年の仮寝かな(淑恵夫人への遺書の末尾に記載)
  • すがすがし暴風の後月清し(自決した官舎内寝室の柱に、この句の後に、改行して「為淑恵殿 瀧治郎」と書いて貼ってあった)

参考文献[編集]

「大西瀧治郎」故大西瀧治郎海軍中将伝刊行会、1957年

「特攻の真意-大西瀧治郎 和平へのメッセージ」神立尚紀著、文藝春秋、2011年

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