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中内㓛

出典: フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)』

中内 㓛(なかうち いさお、1922年〈大正11年〉8月2日 - 2005年〈平成17年〉9月19日)は、日本の実業家。 ダイエー創業者。

語録

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  • ダイエー会長・社長・グループCEOを歴任したほか、日本チェーンストア協会会長(初代、10代、14代)・名誉会長(初代)、日本経済団体連合会副会長を務めたほか、自身が設立した学校法人中内学園(流通科学大学)学園長・理事長、財団法人中内育英会の理事長も務め、教育者としての一面もあった。
  • 1941年に兵庫県立神戸高等商業学校(新制神戸商科大学の前身。現・兵庫県立大学)を卒業。戦時中のため繰り上げ卒業であった。ゲーテ『ファウスト』のファウスト博士の嘆きを一部改変し、「神戸高商で努力して学んだ様々な哲学も、芸術も経済学も文学も、まったく役に立たなかった」という意味のドイツ語の文句を卒業アルバムに記す。勉強は苦手で、推薦状を得ながらも試験の出来が悪く、神戸商業大学(現・神戸大学)などの大学受験に失敗。
  • 中内が一兵卒として召集された理由は、神戸高商時代の配属将校に嫌われ(自身は「下駄をはいて殴打された」と述べている)、「兵適」という最低の評価しか下されなかったからとされている。身体検査で「心臓が右にあるという『内臓逆位』であることが判明したため」とも述べている。
  • 1945年1月7日に榴弾砲が破壊される。部隊は1月23日未明に玉砕命令が下された直後、一四方面司令官・山下奉文によるゲリラ戦の命令が下されたことで辛うじて生き延びた。
  • フィリピン戦線では虫を食べて生き延びる絶望的な食料状況の中、ゲリラ戦で米軍基地を襲撃した時、米軍が石油発動機でアイスクリームを作っていたことに衝撃を受けた。敵から手榴弾の攻撃を受け、瀕死の重傷を負い死を覚悟したとき、神戸の実家で家族揃ってすき焼きを食べている光景が頭に浮かび、「もう一回腹いっぱいすき焼きを食べたい」と思ったという。第二次世界大戦での戦争体験は、人生観やダイエーの企業理念にも影響を与えた。
  • 「人の幸せとは、まず、物質的な豊かさを満たすことです」
  • 当初は特殊浴場やパチンコ店をやろうとも考えたが、死んだ戦友に顔が立たないと思い、最も利益率の低いスーパーを選んだと述べている。
  • 「価格の決定権を製造メーカーから消費者に取り返す」ことを信念として、「いくらで売ろうとも、ダイエーの勝手で、製造メーカーには文句を言わせない」
  • 「For the Customers よい品をどんどん安く消費者に提供する」の実現に向け、「既存価格を破壊することが、ダイエーの存在価値にある」
  • 「スーパーはライフラインである」
  • 新婚旅行先の宿から電話で薬の取引をするなど、家庭よりも仕事を優先した一方で、かなりの家族思いで、部下に愛娘のことを話した時「忙しいて全然構ってあげへんかったなあ」と涙を流した。
  • 亡くなる前年の2004年7月に、81歳で自動車の運転免許を取得したときは、いかにも得意気に知人に運転免許証を見せびらかし、いずれは北アメリカ大陸のハイウェイを走りたいと言っていた。ただ、高齢なのでなかなか運転させてもらえず、業を煮やした中内はタクシーを捕まえ「金払うさかい、かわりに運転させろ」と運転手に迫ったという。