津田梅子
津田 梅子(つだ うめこ、旧暦 元治元年12月3日〈新暦 1864年12月31日〉- 1929年〈昭和4年〉8月16日)は、日本の女子教育家。日本初の女子留学生の一人で、女子英学塾(現:津田塾大学)の創設者であり、日本における女子教育の先駆者と評価される。また、欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性である。聖公会の信徒。
語録
[編集]- 自分自身のことをいつまでも思い煩うまい。事物の永遠の成立ちのなかで、わたしやわたしの仕事などごく些少なものに過ぎないことを学ばねばならない……新しい苗木が芽生えるためには、ひと粒の種子が砕け散らねばならないのだ。わたしと塾についてもそう言えるのではなかろうか。その思いが念頭を去らない。
- 塾の第1回卒業生の一人は、下記のように述べている。
私はあのやうに身にしみた授業を受けた事は曽てなく、……、先生は何事も何事もいい加減な事はお嫌ひでありました。……自分で辞書の隅から隅まで探し、適訳を見つけさせました……
- 女子英学塾塾長(第2代)・津田塾大学学長(初代)を務めた星野あい(1906年〈明治39年〉女子英学塾卒業)は、下記のように述べている。
先生から直接指導を受けたのは一年半に過ぎなかったが、その授業の徹底、少しのごまかしも許さぬ厳しさは身に沁みて今に至るも忘れることは出来ない。
- 塾の教え子の一人は、下記のように述べている。
先生は日本婦人に稀にみる熱と力の人で、その熱と力を集中しての訓練は、峻厳をきわめ、怠け者や力不足の者は学校に居たたまれぬほどであった。 その代わりに学生の態度が真剣で熱心であると、人一倍喜ばれた。はなはだしい愚問でないかぎり、生徒がいくらくどく質問しても、決していやな顔をされず、得心のいくまで教えられた。時には生徒が先生を言い負かすようなことがあっても、怒られぬのみかかえってその意気を喜ばれた。
- 女子英学塾の第10回卒業生であり、1910年(明治43年)前後に梅子の授業を受けた山川菊栄は、下記のように記している。
津田先生にとつては教へることが最大の快楽であり、唯一の趣味であるとさへ見えた。どんなに暗い、ムツツリしたお顔で教室へ入つて来られた時でも、授業の進行と共に、先生のお顔は晴れやかに輝き、最後には快活な笑ひ声と共に、凱旋将軍のやうに意気揚々と、恰かも又ほしい物をあてがはれた赤児のやうに、満足し切つて出て行かれるのだつた。
- 寺沢龍は、梅子を下記のように評している。
その頑固さと実直さは父親ゆずりのものであり、妥協を許さない潔癖な性格であった。人柄は地味で表立ったことを好まなかったが、内心には熱く一徹なものを秘めており、正義感と責任感がつよく、いったん思い込むと容易に信を曲げなかった。気短で癇癪のつよいところも父親に似て、感情が直截にあらわれたともいわれている。
- 大庭みな子は、梅子を下記のように評している。
いったい梅子は幼いときから、日本人、アメリカ人、女性、男性を問わず、どうしてこうも次つぎとめぐり逢う有力な人びとに助けられる運命にあるのか。まず、チャールズとアデリン・ランマン夫妻、伊藤博文、森有礼、大鳥校長、西村校長、アリス・ベーコン、捨松、繁子、モリス夫妻、それぞれの立場で助力を惜しまなかった。そして冒頭に述べたアンナ・ハーツホンなどはまさにその一生を津田塾のために捧げたといってよいくらいである。 実際梅子には私利私欲というものがほとんどなかった。 梅子自身に聊かも私心がないだけに、この素直すぎるといえる援助を願う気持ちは不可思議に相手の心を動かした。 梅子は塾の創立を含め生涯に亙ってこの種の基金を集める教育事業家としても異様な才があった。彼女は自分のためには信じられないくらい質素で、集められた金は全て後進の女性を育てるために使われた。それ故にこそこれほどの浄財が彼女のもとに寄せられたのである。
- 山崎孝子は、梅子を下記のように評している。
既存の資料を整理し、梅子の教えを親しく受けた人々から思い出などを聞きつつ、私が知ったことは、梅子がみずから語ったごとく、稀にみる「ふしぎな運命」を受け、選ばれた女性の栄光に満ちた道をたどりながらも、名利を求める心がいささかもなく、虚栄・虚飾から遠い地点を苦難を負って歩んだ、ということであった。梅子に関する資料が少ないことも、こうした梅子の美質と無関係ではない。多少あった現資料も、関東大震災・太平洋戦争の戦災などで焼失した。梅子の住んだ家・別荘の類も何一つ現存しない。ただ私どもの眼前に津田塾大学が現存し、同大学の東北隅には梅子の墓所がある。これが梅子が世に遺したすべてであった。