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*[[春]]の夜の[[夢|ゆめ]]のうき橋とだえして峰にわかるる横雲のそら |
*[[春]]の夜の[[夢|ゆめ]]のうき橋とだえして峰にわかるる横雲のそら |
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*見渡せば花も[[紅葉|もみぢ]]もなかりけり浦のとまやの[[秋]]の夕暮 |
*見渡せば花も[[紅葉|もみぢ]]もなかりけり浦のとまやの[[秋]]の夕暮 |
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**[[西行法師]]の「さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮」、[[寂蓮法師]]の「心なき身にもあはれは知られけりしぎたつ澤の秋の夕ぐれ」と合わせて「三夕の歌」と言われている。 |
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*ひとりぬる山鳥のをのしだりをに霜おきまよふ床の[[月]]影 |
*ひとりぬる山鳥のをのしだりをに霜おきまよふ床の[[月]]影 |
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*駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの[[雪]]の夕暮 |
*駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの[[雪]]の夕暮 |
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*こぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くやもしほの身もこがれつつ |
*こぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くやもしほの身もこがれつつ |
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*帰るさのものとや人のながむらん待つ[[夜]]ながらの有明の月 |
*帰るさのものとや人のながむらん待つ[[夜]]ながらの有明の月 |
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*やまとうたの道、浅きに似て深く、易きに似て難し。弁へ知る人またいくばくならず。 |
*やまとうたの道、浅きに似て深く、易きに似て難し。弁へ知る人またいくばくならず。 |
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**『近代秀歌』 |
**『近代秀歌』 |
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*いはむや近き世の人は、ただ思ひ得たる風情を三十字に言ひ続けむことを先として、さらに姿詞の趣を知らず。 |
*いはむや近き世の人は、ただ思ひ得たる風情を三十字に言ひ続けむことを先として、さらに姿詞の趣を知らず。 |
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**『近代秀歌』 |
**『近代秀歌』 |
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*おろそかなる親の教へとては、「歌は広く見遠く聞く道にあらず。心より出でて自らさとるものなり」とばかりぞ申し侍りしかど、それをまことなりけりとまでたどり知ることも侍らず。 |
*おろそかなる親の教へとては、「歌は広く見遠く聞く道にあらず。心より出でて自らさとるものなり」とばかりぞ申し侍りしかど、それをまことなりけりとまでたどり知ることも侍らず。 |
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**『近代秀歌』 |
**『近代秀歌』 |
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=== 藤原定家に関する引用 === |
=== 藤原定家に関する引用 === |
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* 定家はさうなきものなり。-- [[後鳥羽天皇|後鳥羽院]]『後鳥羽院御口伝』 |
* 定家はさうなきものなり。-- [[後鳥羽天皇|後鳥羽院]]『後鳥羽院御口伝』 |
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* 定家は生得の上手にてこそ、心なにとなけれども、うつくしくはいひ続けたれば、殊勝のものにてこそはあれ。-- [[後鳥羽天皇|後鳥羽院]]『後鳥羽院御口伝』 |
* 定家は生得の上手にてこそ、心なにとなけれども、うつくしくはいひ続けたれば、殊勝のものにてこそはあれ。-- [[後鳥羽天皇|後鳥羽院]]『後鳥羽院御口伝』 |
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2009年2月5日 (木) 09:52時点における版
藤原定家
藤原定家からの引用
小倉百人一首はウィキソースを参照
和歌
- 春の夜のゆめのうき橋とだえして峰にわかるる横雲のそら
- 見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやの秋の夕暮
- ひとりぬる山鳥のをのしだりをに霜おきまよふ床の月影
- 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮
- こぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くやもしほの身もこがれつつ
- 帰るさのものとや人のながむらん待つ夜ながらの有明の月
歌論
- やまとうたの道、浅きに似て深く、易きに似て難し。弁へ知る人またいくばくならず。
- 『近代秀歌』
- いはむや近き世の人は、ただ思ひ得たる風情を三十字に言ひ続けむことを先として、さらに姿詞の趣を知らず。
- 『近代秀歌』
- おろそかなる親の教へとては、「歌は広く見遠く聞く道にあらず。心より出でて自らさとるものなり」とばかりぞ申し侍りしかど、それをまことなりけりとまでたどり知ることも侍らず。
- 『近代秀歌』
発言
- 紅旗征戎非吾事
- 書き下し:紅旗征戎、吾が事にあらず。
- 『明月記』治承4年(1180)