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Yooske AKIZUKI (トーク | 投稿記録) ページの作成:「== Notebooks 1914-1916 == *人はしばしば、しるしをつけたあとで、それを「どうやって」真にするかを見い出す。(1914) *論理はそれ自...」 |
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== Notebooks 1914-1916 == |
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*人はしばしば、しるしをつけたあとで、それを「どうやって」真にするかを見い出す。(1914) |
*人はしばしば、しるしをつけたあとで、それを「どうやって」真にするかを見い出す。(1914) |
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*論理はそれ自体を参照する。つまり、私たちがしなければならないことのすべてというものは、それ[論理]を観察して、それがどのように何をするか、見ることである。(1914) |
*[[論理]]はそれ自体を参照する。つまり、私たちがしなければならないことのすべてというものは、それ[論理]を観察して、それがどのように何をするか、見ることである。(1914) |
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*細部の問題にとらわれるな。しかし、つねにあちらこちらに飛翔し続けるということは、ある「ひとつの」偉大な問題の全体を自由に俯瞰することである。たとえ、その景色がまだ曇っていたとしても。(1914) |
*細部の問題にとらわれるな。しかし、つねにあちらこちらに飛翔し続けるということは、ある「ひとつの」偉大な問題の全体を自由に俯瞰することである。たとえ、その景色がまだ曇っていたとしても。(1914) |
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*私の困難とは、ただひとつ――とんでもないバケモノだ――表現における困難である。(1915) |
*私の困難とは、ただひとつ――とんでもないバケモノだ――表現における困難である。(1915) |
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*私は、自然状態の命題からは、なにひとつ、個別の論理的な操作をも見い出すことが「できない」! (1915) |
*私は、自然状態の命題からは、なにひとつ、個別の論理的な操作をも見い出すことが「できない」! (1915) |
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*次に示すことは、テツガクシャというものにとっての、主要な能力のひとつである。すなわち、自分自身と関わりのない問題によって、自分自身を占領してしまわないことだ。(1915) |
*次に示すことは、[[哲学者|テツガクシャ]]というものにとっての、主要な能力のひとつである。すなわち、自分自身と関わりのない問題によって、自分自身を占領してしまわないことだ。(1915) |
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*言語は、私たちという有機体の一部分であって、それよりも複雑なものは存在しない。(1915) |
*言語は、私たちという有機体の一部分であって、それよりも複雑なものは存在しない。(1915) |
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*確実なことは、次のように言うことは正しいということだ。すなわち、善悪を識別する精神とは、神の声である。(1915) |
*確実なことは、次のように言うことは正しいということだ。すなわち、善悪を識別する精神とは、神の声である。(1915) |
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*神と、人生の目的とについて、私は何を知りうるというのか?<br /> |
*[[神]]と、[[人生]]の目的とについて、私は何を知りうるというのか?<br />[……]<br />人生の目的という物、さらに言えば、世界の意味というものを、私たちは、神と呼ぶことができる。<br />[……]<br />祈りとは、人生の意味について考えることである。(1916) |
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*神を信じるということは、人生の意味についての問いを理解するということだ。<br />神を信じるということは、世界の諸事実とは、物事の終わりではないということを、見ることだ。<br />神を信じるということは、人生には意味があるということを見い出すことだ。(1916) |
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人生の目的という物、さらに言えば、世界の意味というものを、私たちは、神と呼ぶことができる。<br /> |
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祈りとは、人生の意味について考えることである。(1916) |
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*神を信じるということは、人生の意味についての問いを理解するということだ。<br /> |
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神を信じるということは、世界の諸事実とは、物事の終わりではないということを、見ることだ。<br /> |
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神を信じるということは、人生には意味があるということを見い出すことだ。(1916) |
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そして、私は、私の世界である。(1916) |
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*想像できないものは、語ることもまたできない。(1916) |
*想像できないものは、語ることもまたできない。(1916) |
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*自明なのは、気軽な関係というものは、まったくもって気軽な関係ではない、ということである。(1916) |
*自明なのは、気軽な関係というものは、まったくもって気軽な関係ではない、ということである。(1916) |
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2011年4月2日 (土) 17:23時点における版
Notebooks 1914-1916
- 人はしばしば、しるしをつけたあとで、それを「どうやって」真にするかを見い出す。(1914)
- 論理はそれ自体を参照する。つまり、私たちがしなければならないことのすべてというものは、それ[論理]を観察して、それがどのように何をするか、見ることである。(1914)
- 細部の問題にとらわれるな。しかし、つねにあちらこちらに飛翔し続けるということは、ある「ひとつの」偉大な問題の全体を自由に俯瞰することである。たとえ、その景色がまだ曇っていたとしても。(1914)
- 私の困難とは、ただひとつ――とんでもないバケモノだ――表現における困難である。(1915)
- 私は、自然状態の命題からは、なにひとつ、個別の論理的な操作をも見い出すことが「できない」! (1915)
- 次に示すことは、テツガクシャというものにとっての、主要な能力のひとつである。すなわち、自分自身と関わりのない問題によって、自分自身を占領してしまわないことだ。(1915)
- 言語は、私たちという有機体の一部分であって、それよりも複雑なものは存在しない。(1915)
- 確実なことは、次のように言うことは正しいということだ。すなわち、善悪を識別する精神とは、神の声である。(1915)
- 神と、人生の目的とについて、私は何を知りうるというのか?
[……]
人生の目的という物、さらに言えば、世界の意味というものを、私たちは、神と呼ぶことができる。
[……]
祈りとは、人生の意味について考えることである。(1916) - 神を信じるということは、人生の意味についての問いを理解するということだ。
神を信じるということは、世界の諸事実とは、物事の終わりではないということを、見ることだ。
神を信じるということは、人生には意味があるということを見い出すことだ。(1916) - 時間の中に生きるのではなく、現在を生きる人だけが、幸福である。(1916)
- 右記は真である。人は小宇宙である。
そして、私は、私の世界である。(1916) - 想像できないものは、語ることもまたできない。(1916)
- 自明なのは、気軽な関係というものは、まったくもって気軽な関係ではない、ということである。(1916)