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「アルトゥール・ショーペンハウアー」の版間の差分

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: けれども、特定の個人についてさえ、その短所を一言で明示することは、なかなかむずかしいことであろう。それはむしろ、間接的な言いまわしで表現しうるものなのである。たとえば、プラトンの弱味は、まさにアリストテレスの強みの存するところにあり、またその逆も真である。カントの短所は、ゲーテが偉大であった点に存し、またその逆も真である。<ref>[[w:アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウエル]]『知性について-他四篇』 [[w:細谷貞雄|細谷貞雄]]訳([[w:岩波書店|岩波書店]]〈[[w:岩波文庫|岩波文庫]]〉、[[w:1961年|1961年]])145ページ</ref>
* 人間は、何かあるものを崇拝したがるものである。ただ、彼らの崇拝は、たいていお門違いのところで立ちどまっていて、やがて後世の人々がその間違いを直すまで、そこに停滞しつづける。そして、この是正がおこなわれたあとでも、教養大衆が天才に払う敬意は、ちょうど信徒たちが彼らの聖者にささげる崇拝のように、とかくつまらぬ遺物礼拝に変質するものである。<ref>[[w:アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウエル]]『知性について-他四篇』 [[w:細谷貞雄|細谷貞雄]]訳([[w:岩波書店|岩波書店]]〈[[w:岩波文庫|岩波文庫]]〉、[[w:1961年|1961年]])146ページ</ref>
* “二つの歴史”がある。すなわち“政治”史と、“文学”および芸術の歴史である。第一の歴史は“意志”の歴史であり、第二の歴史は“知性”の歴史である。したがって政治史は我々に不安を与えるばかりか、恐怖心までもひきおこす。政治史は大量の不安、困窮、詐欺、残忍な殺人に満ちている。これに反して文学史は、孤独の智者のように喜ばしい空気、晴朗な空気に満ちている。たとえ迷路を描く場合があっても、その空気に変わりはない。文学史の主要部門は哲学史である。哲学史は本来文学史の基音で、他の部門の中へ鳴り響いて行く。つまり他の文学部門の主義、主張を基本的に指導するのである。だがそれだけではない。哲学史は世界を支配する。したがって真の意味の哲学は、もっとも強力な現世的権力でもある。けれども、その支配作用の歩みははなはだゆるやかである。<ref>[[w:アルトゥル・ショーペンハウアー|ショペンハウエル]]『読書について-他二篇』 [[w:斎藤忍随|斎藤忍随]]訳([[w:岩波書店|岩波書店]]〈[[w:岩波文庫|岩波文庫]]〉 改版[[w:1983年|1983年]])140ページ</ref>
 
==『意志と表象としての世界』==
*哲学的思想は、ただその思想を創始した人自身から受けとることができるだけである。だから哲学を勉強したくてたまらない人は、哲学の不滅の教師を、その教師の著作それ自体という、もの静かな聖殿の中に探したずねなければならない。不滅の教師ともいうべきほんものの哲学者なら誰でもいい、その人の主要な章を読めば、それについて凡俗の頭脳が作製した冗漫で斜視的な解説文よりも百倍も多くの洞察が、その人の教えについて得られるであろう。さらにつけ加えていえば、凡俗の頭脳はたいてい深くそのときどきの流行哲学にとらわれ、自分らの思いこみにとらわれているものなのである。それなのに、まったく呆れたことだが、読者階層はじつにきっぱりと、他人の手になる解説祖述には好んで手を出したがるのである。こういう場合、実際には、親和力がはたらいているらしく、平凡な人は親和力のおかげで、自分に似た人に牽きつけられるのであり、したがってまた偉大な精神の持主が語ったことですら、自分に似た人から聞き出したがるのである。ひょっとするとこのことは、子供たちが、一番よく学ぶのは自分の仲間からであるという、相互教育のシステムと同じ原理に基づいているのかもしれない。(一八四四年二月、第二版への序文)<ref>[[w:アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウアー]]『意志と表象としての世界Ⅲ』 [[w:西尾幹二|西尾幹二]]訳([[w:中公クラシックス|中公クラシックス]]、[[w:2004年|2004年]])275〜276ページ</ref>
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