千利休
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せんの りきゅう、織豊期の日本の茶人。旧名は宗易。本名千与四郎。本姓は田中、また納屋(なや)とも。
ほぼ確実に利休のものと考えられていることば
[編集]著書はなく、その茶語は門人の書物に伝わる。
山上宗二記
[編集]利休の高弟、山上宗二(やまのうえそうじ)が著した茶書。宗二自筆による諸本が10冊ほど残る。原本にタイトルはなく「茶器名物集」「珠光一紙目録」などとも呼ばれる。利休同時代の極めて信頼できる書。
- 朝夕寄合いの間なりとも、道具の開き、または口切の儀は申すに及ばず、常の茶湯なりとも、路地へはいるから立つまで、一期に一度の参会の様に、亭主をしっ(執)して威(お)づべき
(日常の付き合いある間柄であろうとも、茶道具のお披露目、または口切の茶会ではいうまでもなく、普段の茶会であっても、路地に入って出るまでは、一生に一度の茶会との心構えで、亭主の一挙一投足に注目し、亭主に敬意を払わなければならない)
- 茶湯を身過ぎに仕る事、口惜しき次第
- 山上宗二記は、平凡社東洋文庫「日本の茶書1」、岩波文庫(2006年)などに収録。
南方録
[編集]利休の弟子、南坊宗啓が利休の語を記録した書を、立花実山が筆写したものというが、内容に疑わしい点もあり、今では虚実混交の(実山による)偽書とする説が有力。
- 茶の湯とは、ただ湯をわかし茶をたてて、飲むばかりなるを本と知るべし。
- 南方録は淡交社『茶道古典全集』(1956)のほか、岩波文庫(1986年)に収録される。
辞世
[編集]1591年、利休は罪を得て、豊臣秀吉に死罪切腹を申し付けられた。
- 利休めはとかく果報乃ものそかし菅丞相になるとおもへハ
- 『千利休由緒書』に見える狂歌。京を追放され堺に蟄居する際、同居の娘のお亀に残したと伝えられる。
- 人生七十 力圍希咄 吾這寳劒 祖佛共殺 提ル我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛
※「圍」は、原文では「国構え=口」に「力」の字。
- じんせいしちじゅう りきいきとつ わがこのほうけん そぶつともにころす ひっさぐるわがえぐそくのひとつたち いまこのときぞてんになげうつ
- 辞世の偈。