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昭和天皇

出典: フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)』

昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〜1989年)は日本の第124代天皇。

  • 1942年12月、小倉庫次侍従日記に記されている発言
「支那事変はやり度くなかつた。それは、ソヴィエトがこわいからである」
「戦争はやる迄は深重に、始めたら徹底してやらねばならぬ」
  • 1945年2月14日近衛文麿元首相の「敗戦は必至、しかし『国体護持』は死守できる見込み」との上奏に対し
「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト、ナカナカ話ハ難シイト思フ」

(出典 安仁屋政昭「沖縄は近現代の日本でどのように存在したか」佐々木隆爾編『争点日本の歴史』6巻近・現代編 新人物往来社 1991・5 P258)

  • 昭和20年(1945)8月15日正午、玉音放送より
「然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪え 忍び難きを忍び もって万世の為に太平を開かんと欲す」

(出典 無記)

  • 1945年9月27日のマッカーサー元帥との会見で
「私は戦争責任の追及に関係のある全ての出来事に対して、全面的に責任を負いたいと思う」
「私の一身上の運命がどうなるかについて、貴方方がどう判断されようと構わない」
  • 1946年2月19日地方巡幸の際の会見で
「私は方々から引き揚げて来た人、親しい者を失った人、困っている人達のところへ行って慰めてやり、また働く人を励ましてやって、一日も早く日本を再興したい。この為にはどんな苦労をしても構わない。」
  • 1947年9月宮内府御用掛寺崎英成(てらさきひでなり)をして占領軍総司令部のシーボルトに伝言せしめて
「米国が沖縄その他の琉球諸島を長期にわたって、条約を以て軍事占領を続けるよう希望する。最低でも50年」

(出典 安仁屋政昭「沖縄は近現代の日本でどのように存在したか」佐々木隆爾編『争点日本の歴史』6巻近・現代編 新人物往来社 1991・5 P259)

  • 1972年6月23日天皇在位期間最長記録を達成して
「一日一日を国の為、務めとして送っている内に今日に至った事を思うと、過ぎ去った月日の流れをしみじみと感じている」
「国民と同様に喜びと悲しみの幾歳月であった」
  • 1975年10月2日米フォード大統領主催晩餐会で米国訪問理由について
「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争の直後、貴国が我が国の再建の為に温かい好意と援助の手を差し伸べられた事に対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べる事でありました。」
  • 1978年10月23日、中国のトウ小平副首相に対して
「両国の長い歴史の間には一時不幸な出来事もありましたが、今後は末永く色々な関係で親善を深めていく事を希望します。」
  • 1979年8月29日の記者会見にて、大正10年欧州旅行の際訪れたイギリス王室について
    • 「ジョージ五世から立憲君主の在り方について親切な話を伺い、それ以来、立憲君主はどうすべきか私の頭の中にありました。立憲君主である事が私の終生の考えの根本です。」
  • 時期は不明、侍従の入江相政が昭和天皇の住まいに茂った下草を刈った際のやりとりで
「雑草という草はありません。どんな植物でもみな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方で、これを雑草として決め付けてしまうのはいけない。注意するように。」

(出典 入江相政「宮中侍従物語」)

Wikipedia
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