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さかもと りょうま。江戸時代末期の志士。 |
さかもと りょうま。江戸時代末期の志士。 |
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*日本を今一度せんたくいたし申候 - 文久3年6月29日坂本乙女宛 |
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*此頃願上度事ハ古人も在云、国家難ニのぞむの際ニハ必、家宝の甲を分チ、又ハ宝刀をわかちなど致し候事。何卒御ぼしめしニ相叶候品、何なり共被遣候得バ、死候時も猶御側ニ在之候思在之候。何卒御願申上候。 - 慶応2年12月4日兄権平宛(手紙にて吉行の刀を求める箇所) |
*此頃願上度事ハ古人も在云、国家難ニのぞむの際ニハ必、家宝の甲を分チ、又ハ宝刀をわかちなど致し候事。何卒御ぼしめしニ相叶候品、何なり共被遣候得バ、死候時も猶御側ニ在之候思在之候。何卒御願申上候。 - 慶応2年12月4日兄権平宛(手紙にて吉行の刀を求める箇所) |
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*先頃西郷より御送被遣候吉行の刀、此頃出京ニも常帯仕候。京地の刀剣家ニも見セ候所、皆粟田口忠綱位の目利仕候。此頃毛利荒次郎出京ニて此刀を見てしきりにほしがり、私しも兄の賜なりとてホコリ候事ニて御座候。 - 慶応3年6月24日兄権平宛(手紙にて吉行の刀にふれる箇所) |
*先頃西郷より御送被遣候吉行の刀、此頃出京ニも常帯仕候。京地の刀剣家ニも見セ候所、皆粟田口忠綱位の目利仕候。此頃毛利荒次郎出京ニて此刀を見てしきりにほしがり、私しも兄の賜なりとてホコリ候事ニて御座候。 - 慶応3年6月24日兄権平宛(手紙にて吉行の刀にふれる箇所) |
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2010年11月10日 (水) 16:28時点における版
坂本龍馬 (1835年 - 1867年)
さかもと りょうま。江戸時代末期の志士。
手紙からの引用
- 日本を今一度せんたくいたし申候 - 文久3年6月29日坂本乙女宛
- 此頃願上度事ハ古人も在云、国家難ニのぞむの際ニハ必、家宝の甲を分チ、又ハ宝刀をわかちなど致し候事。何卒御ぼしめしニ相叶候品、何なり共被遣候得バ、死候時も猶御側ニ在之候思在之候。何卒御願申上候。 - 慶応2年12月4日兄権平宛(手紙にて吉行の刀を求める箇所)
- 先頃西郷より御送被遣候吉行の刀、此頃出京ニも常帯仕候。京地の刀剣家ニも見セ候所、皆粟田口忠綱位の目利仕候。此頃毛利荒次郎出京ニて此刀を見てしきりにほしがり、私しも兄の賜なりとてホコリ候事ニて御座候。 - 慶応3年6月24日兄権平宛(手紙にて吉行の刀にふれる箇所)
和歌からの引用
- 世の人は 我をなんとも 言わば言え 我が為すことは 我のみぞ知る
- 丸くとも一かどあれや人心あまりまろきは ころびやすきぞ
その他
- 世に活物たるもの皆衆生なれば、いづれを上下とも定めがたし。いま世の活物にては、ただ我をもって最上とすべし。
- 『軍中龍馬奔走録』より
- 船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る。
- 沈んだ「いろは丸」の賠償金を紀州藩に支払わせるため、龍馬が作り、長崎の丸山で流行させた歌。
- 人に会ふとき、もし臆するならば、その相手が夫人とふざけるさまは如何ならんと思へ。
- 人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある。