アドルフ・ヒトラー

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アドルフ・ヒトラー (Adolf Hitler,1889年 - 1945年)はオーストリア出身のドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党党首。

出典が確認されたもの[編集]

  • この地球は『人種戦争の勝利者に贈られる持ち回りの優勝カップ』に他ならない。
    • 首相就任後の1933年1月30日、首相官邸で語った言葉。"Reden des Fuehrers am Parteitag der Ehre 1936"、13p、南利明
  • 私は戦争を望む。私にとって手段は全て正解となる。私のモットーは「何も行わずに、敵を悩ませる」ではない。私のモットーは「完全に全ての手段で相手を倒す」だ。私は戦争を行う者だ。
    • Hitler and Nazism中での引用
  • 党はヒトラーであり、ヒトラーはしかしドイツである。ドイツがヒトラーであるように!
  • 民族が高潔かどうかの決定を人間が下すことは難しい。それは神に任せられるべきだ。
    • ヴィルヘルムスハーフェンでの演説 (April 1, 1939)
  • 人をよりよくするのではなくそれらの弱点を利用するために、私はこの世界に入った。
    • H.R. Trevor-RoperによるエッセイThe Mind of Hitler中での引用
  • ユダヤ人問題の認識と解決なしには、ドイツ民族体再興の企ては無意味であり、不可能である
  • いかなる宣伝も大衆の好まれるものでなければならず、その知的水準は宣伝の対象相手となる大衆のうちの最低レベルの人々が理解できるように調整されねばならない。それだけでなく、獲得すべき大衆の数が多くなるにつれ、宣伝の純粋の知的程度はますます低く抑えねばならない。
  • 大衆の受容能力は極めて狭量であり、理解力は小さい代わりに忘却力は大きい。この事実からすれば、全ての効果的な宣伝は、要点を出来るだけ絞り、それをスローガンのように継続しなければならない。この原則を犠牲にして、様々なことを取り入れようとするなら、宣伝の効果はたちまち消え失せる。というのは、大衆に提供された素材を消化することも記憶することもできないからである。
  • 大衆の圧倒的多数は、冷静な熟慮でなく、むしろ感情的な感覚で考えや行動を決めるという、女性的な素質と態度の持ち主である。だが、この感情は複雑なものではなく、非常に単純で閉鎖的なものなのだ。そこには、物事の差異を識別するのではなく、肯定か否定か、愛か憎しみか、正義か悪か、真実か嘘かだけが存在するのであり、半分は正しく、半分は違うなどということは決してあり得ないのである。
    • 『我が闘争』より
  • 音楽が終わったら、明かりを消してくれ。
    • ヒトラー死亡直前の最後の発言。 (1945年)

帰着されるもの[編集]

  • パリは燃えているか?
    "Brennt Paris? (Is Paris burning?)"
    • 奪還までパリの司令官を務めることとなるディートリヒ・フォン・コルティッツに尋ねた言葉。ヒトラーはパリを放棄する際には街を破壊する命令を出したが、コルティッツは命令を拒否した。
  • 平和主義など、臆病の現れに過ぎない。

プロパガンダと革命について[編集]

  • 大衆は小さな嘘より大きな嘘の犠牲になりやすい。とりわけそれが何度も繰り返されたならば。
  • 青少年に判断力や批判力を与える必要は無い。娯楽と競争意識だけを与えればよいのだ。青少年から思考力を奪い、指導者の命令に対する服従心だけを植え付けるべきだ。国家や社会や指導者を批判する者に対して動物的な憎悪を抱かせるようにせよ。少数派や異端者は悪だ、と思い込ませよ


語録[編集]

  •  夜も昼も、寝ても、覚めても、このことで私の頭は一杯である。ドイツはどうなるのかと。[1]
  •  ドイツ民族よ。階級闘争の思想を捨て分裂の思想を捨てて一致団結すれば、ドイツ民族は強くなる。
 自分の労働を民族全体の生存の意志と一致させるとき、その労働には思いもよらない力がこもるものである。[2]
  •  ドイツは世界で最も強固な力をもつ国であり、温室育ちの植物ではない。[3]
  •  或る者が過失をおかしても私は特に怒らない。しかし軍律に反した場合はこれは基本にかかわる問題である。当事者は場合によっては階級や地位その他すべてを失うことがあり得る。[4]
  •  歴史に対する感覚のない人間は視聴覚のない人間のようなものである。生きては行けるであろうが、それが何になろうか。[5]
  •  我々の任務を後代の人たちの手に引き継いでもよかったろうにと言う人があったら、それはできないと答えよう。我々の次の世代が巨人の世代になるとは限らない。ドイツが立ち直るために三十年の年月を要した。ローマは二度と立ち上れなかった。これが歴史の語るところである。[6]
  •  迷信というものは笑うべきことであっても、人を動かす上に考慮に入れなければならない要素だと私は思う。私が一度、ムッソリーニが月の十三日に軍事行動を起そうとしたのを止めさせたことがあるのも、そのためである。
 同じように、ベテランの水夫たちが金曜日の出航は危険だと思っているのなら、それを強行させるのはまちがいだと思う。このような迷信というものは不慮の作用となり得るものである。こういうものを信じている人たちはちょっとした危険に際してすぐに浮き足立つものであるから。[7]
  •  内省的になることは、人間にとって全く素晴らしいことではある。事実は、我々は意志のない造物であるということ、一方、創造的な力が存在するということである。これを否定しようとするのは愚かである。誤ったことを信じている者でも、何も信じていない者に比べればはるかにましである。[8]
  •  我々は不運にも、持つ宗教を間違った。日本人が持っているような、祖国のために我が身を犠牲にすることを最善とする宗教を、我々はなぜ持たなかったのだろうか。[9]
  •  ボルシェビズムは程度の低い民族のための教義である。[10]
  •  ショーペンハウエルの一冊が、一九一四年から一九一八年の戦争の間、私の伴侶であった。[11]
  • 国民の自業自得だ。国民が地獄を味わうのは当然の義務。(選挙で)我々を選んだのは国民なのだから、最後まで付き合ってもらうさ。[12]

演説[編集]

  •  われわれがクリスマスのときに祝う出来事が実際に起こっていた時代は、多くの点で今日の時代とよく似た特徴を持っている。当時も、ユダヤ人気質によって病んだ唯物主義的世界であった。当時も、困難が乗り越えられたのは、国家権力によってではなくて、最もあわれむべき状況下で生を享けた人物が告知した救済の教えによってであった。そして、アーリアの血を持つ人はみな、今日でもなおこの人物の誕生を祝っている。キリストは、アーリアの血を持っていたのだ。
 われわれは今日ふたたび、毒によって生み出された時代、国家権力による統治が不可能な時代を迎えている。われわれと同じ血を持つ人々をこの唯物主義の世界から解放し、この人々に再び魂の平和を与えようとする運動のためにわれわれが戦うとき、われわれはみな根本において最も堅いキリスト教の信仰によって駆り立てられているのである。われわれ国民社会主義者たちは、キリストのなした御業のなかに、熱狂的な信仰を通じて最も途方もないことを達成する可能性を見ている。キリストは腐敗した世界のなかで立ち上がり、信仰を説き、初めは嘲りを受けたが、しかしこの信仰が大きな世界的運動となった。われわれは同じことを、政治の領域でもたらしたいと思う。どの国民社会主義者も、心にひとつの確信を持っておいてよかろう。もしわれわれが鉄のような精力と粘り強さと最高の信仰を持ってわれわれの所業をなすならば、われわれの所業はいかなる現世の権力によってもくじかれることはありえないであろうと。貨幣と黄金の力も、くじかれるであろう。というのも、黄金は世界における最高のものではないから。
 われわれは、われわれの理念が、もしそれが正しいのならば、普及するであろうことを確信してかまわない。そしてそれは正しいのであり、普及するのである。そのことは、今日のドイツにおいて明らかである。あらゆる妨害、あらゆる迫害、あらゆる禁止、そして指導者たちを倒して麻痺させようとするあらゆる試みにもかかわらず、この運動は中断されることなく広がっている。四、五年前に誰がいったい、この運動が全国の小さな街々にまで広がると予感したであろうか。われわれはとりわけ、「意志があれば道は平坦になる」ということばを肝に銘じておかねばならない。もし誰かがわれわれのことを時勢に乗じた党であると言うならば、われわれは悠然と、しかりと言うことができる。今日のドイツの土壌は、われわれの運動にとって最良の土壌となっている。
 われわれの理念が勝利するのに、あと二〇年または一〇〇年かかるかもしれない。今日この理念を信仰している人々は、死んでしまっているかもしれない。民族と人類の発展において一個人は何の意味があるというのか。われわれの理念が認められる時代が来るであろう。したがって、われわれは戦いを戦い抜かねばならない。われわれは、ドイツ人としてだけではなく、キリスト者としても戦いを正しく耐え抜いたと後世の人々に言ってもらえるように、戦いを戦い抜かねばならない。(一九二五年十二月十二日、ディンゴルフィングにおけるナチ党集会での演説)[13]

遺言[編集]

  •  私は、たとえば中国人あるいは日本人が人種として劣等だなどと思ったことは一度もない。両方とも古い文化をもった国民であり、そして私としては、彼らの伝統の方がわれわれのそれよりも優っていることを認めるのにやぶさかではない。彼らには、それを誇りに思うべき、りっぱな根拠がある。ちょうどわれわれが、われわれが属している文化圏に誇りをもっているように。それどころか私は、中国人や日本人が彼らの人種的な誇りを堅持していてくれればくれるほど、彼らと理解しあうことが私にとってますます容易になるとさえ信じている。(一九四五年二月一三日、総統大本営における「総統の発言」Ⅴ)[14]
  •  まだフランスのことが残っている。二〇年前に私は、この問題について私が考えていることを書いた。フランスはドイツ国民にとって、つねに先祖代々からの宿敵として存在するであろう。その女性的な弱々しさの発作とそのヒステリーとは、ときにはわれわれの目をごまかして、フランスの行動の意味を過小評価させたことさえあった。しかしながら、かりにフランスがもっと弱くなったとしても──それは大いにありうることだが──そのためにわれわれの不信感が気をゆるめるようなことが、絶対にあってはならない。もちろん、軍事大国としてのフランスはすでに過去の話であり、この点ではわれわれの脅威となるようなことは、もはや絶対にないであろう。
 この戦争には──それがどんな結果に終わるにしても──少なくとも一つだけいいことがあったと思う。すなわち、フランスを五等国に格づけしてくれたことである。しかしそれにもかかわらず、われわれにとってフランスが依然として危険な存在であることに変わりないとすれば、その理由はただ一つ、すなわち神をもおそれぬその頽廃性と政治的なおどしをかける術とによって、相手に有無をいわせぬからである。だからこそフランスに対しては、たえざる不信感と用心こそが必要である。ドイツ人たるもの、寸時も注意をおこたることなく、この魔女ジレーネの甘いささやきに決してだまされてはならぬ!
 外国に関しては、単純な基本的規則一本槍では役に立たないから──なぜならば、つねに状況に適応してゆくことが必要である──とにかく確実にわかっていることは、ドイツはつねに、本質の上からユダヤ人の病毒に対して免疫性をもっている国民のあいだに、最も信頼するに足る友人を見出すであろうということである。
 私は、日本人と、中国人と、そしてイスラム諸国民とは、われわれにとって、たとえばフランスよりもつねに身近な存在であると確信している。しかもこのことは、ドイツ人とフランス人とのあいだに存在している血のつながりにもかかわらず、である。
 あたかも不幸が天命であったかのように、フランスは何世紀ものあいだに堕落の途をたどるとともに、その指導的階層はユダヤ精神の従属物になりさがった。それは、もはや元の状態にもどすことが不可能な範囲にまでひろがってしまっている。フランスは、ユダヤ人の政治をおこなうべく決定づけられてしまったのである。(一九四五年四月二日、総統大本営における「総統の発言」ⅩⅤⅢ)[15]

脚注[編集]

Wikipedia
Wikipedia
ウィキペディアにもアドルフ・ヒトラーの記事があります。
  1. アイバンホー・プレダウ編 『ヒトラー語録』 (小松光昭訳、原書房、2011年)1ページ
  2. アイバンホー・プレダウ編 『ヒトラー語録』 (小松光昭訳、原書房、2011年)3ページ
  3. アイバンホー・プレダウ編 『ヒトラー語録』 (小松光昭訳、原書房、2011年)4ページ
  4. アイバンホー・プレダウ編 『ヒトラー語録』 (小松光昭訳、原書房、2011年)10ページ
  5. アイバンホー・プレダウ編 『ヒトラー語録』 (小松光昭訳、原書房、2011年)12ページ
  6. アイバンホー・プレダウ編 『ヒトラー語録』 (小松光昭訳、原書房、2011年)12ページ
  7. アイバンホー・プレダウ編 『ヒトラー語録』 (小松光昭訳、原書房、2011年)14ページ
  8. アイバンホー・プレダウ編 『ヒトラー語録』 (小松光昭訳、原書房、2011年)22ページ
  9. アイバンホー・プレダウ編 『ヒトラー語録』 (小松光昭訳、原書房、2011年)28ページ
  10. アイバンホー・プレダウ編 『ヒトラー語録』 (小松光昭訳、原書房、2011年)62ページ
  11. アイバンホー・プレダウ編 『ヒトラー語録』 (小松光昭訳、原書房、2011年)219ページ
  12. 映画『ヒトラー ―最期の12日間―』より
  13. 高田博行『ヒトラー演説 熱狂の真実』(中央公論新社、2014年)78-81ページ、高田博行『ヒトラーの語りの手法 一ナチ党集会での演説(1925年12月12日)を例にして一』(学習院学術成果リポジトリ、2006年)3.2.演説文本文と日本語訳 1925年12月12日の演説は、ヒトラーがハーメルン近郊のディンゴルフィング(Dingolfing)でのナチ党集会で行ったものである。これは3日後の12月15日に《Kurier fiir Niederbayern》紙に「ディンゴルフィングでのアードルフ・ヒトラー」(Adolf Hitler in Dingolfing) として掲載され、Vollnhalsはこれを1925年2月から1933年1月までのヒトラーの演説・著述・指令を時代順に編集した刊行物の第1巻に第92番目の資料として採録している30)Vollnhals(Hrsg.)(1992):Hitler:Reden, Schriften, Anordnungen. Bd.1., S.237-238.
  14. 記録者マルティン・ボルマン 『ヒトラーの遺言』 (篠原正瑛訳、原書房、2011年)42ページ
  15. 記録者マルティン・ボルマン 『ヒトラーの遺言』 (篠原正瑛訳、原書房、2011年)129-130ページ


参考文献[編集]