十市皇女

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十市皇女(648年?〜678年)[編集]

とおちのひめみこ。天武天皇皇女。額田王の娘。


  • 十市皇女、伊勢神宮に参り赴きし時、波多の横山に巌を見て吹芡刀自の作れる歌
    十市皇女、参赴伊勢神宮時、見波多横山巌吹芡刀自作歌
    • 河のへのゆつ岩むらに草むさず 常にもがもな常処女にて
      河上乃湯都岩村二草武左受常丹毛冀名常處女煮手--『万葉集』巻1-22
      • 吹芡刀自未だ詳らかならず。但し紀に曰く、天皇四年乙亥の春二月の朔の丁亥、十市皇女、阿閇皇女、伊勢神宮に参り赴く。
        吹芡刀自未詳也。但紀曰、天皇四年乙亥春二月朔丁亥、十市皇女、阿閇皇女、参赴於伊勢神宮。
  • 十市皇女薨ぜし時、高市皇子尊の作りませる御歌三首
    十市皇女薨時、高市皇子尊御作歌三首
    • 三諸の神の神杉 已具耳矣自得見監乍共 寝ねぬ夜ぞ多き
      三諸之神之神須疑已具耳矣自得見監乍共不寝夜叙多 --『万葉集』巻2-156
    • 神山の山辺真蘇木綿短木綿 かくのみゆえに長しと思へば
      神山之山辺真蘇木綿短木綿如此耳故尓長等思伎 --『万葉集』巻2-157
    • 山吹の立ちよそひたる山清水酌みに行かめど道の知らなく
      山振之立儀足山清水酌尓雖行道之白鳴 --『万葉集』巻2-158
  • 天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女を生しませり。
    天皇初娶鏡王女額田姫王、生十市皇女。--『日本書紀』巻第二十九(天武天皇二年二月条)
  • 丁亥に、十市皇女・阿閉皇女、伊勢神宮に参赴ます。
    丁亥、十市皇女・阿閉皇女、参赴於伊勢神宮。--『日本書紀』巻第二十九(天武天皇四年二月条)
  • 是の春に、天神地祇を祠らむとして、天下悉に祓禊す。斎宮を倉梯の河上に竪つ。夏四月の丁亥の朔に、斎宮に幸さむとして卜ふ。癸巳、卜に食へり。仍りて平旦の時を取りて、警蹕既に動きぬ。百寮列を成し、乗輿蓋命して、以て未だ出行しますに及らざるに、十市皇女、卒然に病発りて、宮中に薨せぬ。此に由りて、鹵簿既に停まりて、幸行すこと得ず。遂に神祇を祭りたまはず。
    是春、将祠天神地祇、而天下悉祓禊之。竪斎宮於倉梯河上。夏四月丁亥朔、欲幸斎宮卜之。癸巳、食卜。仍取平旦時、警蹕既動。百寮成列、乗輿命蓋、以未及出行、十市皇女、卒然病発、薨於宮中。由此、鹵簿既停、不得幸行。遂不祭神祇矣。--『日本書紀』巻第二十九(天武天皇七年条)
  • 庚子に、十市皇女を赤穂に葬る。天皇、臨して、恩を降して発哀したまふ。
    庚子、葬十市皇女於赤穂。天皇臨之、降恩以発哀。--『日本書紀』巻第二十九(天武天皇七年四月条)
  • 世伝云。大友皇子之妃。是天皇女也。竊以謀事。隠通消息。【已上】於是。吉野宮言。譲位遁世。是為治病全愈也。然今不図之外。其禍招身。何黙止哉。--『扶桑略記』第五
  • 十月。甘露降。十市皇女薨宮中。--『扶桑略記』第五 七年
  • 大友皇子の御妻はこの帝の御女なりしかば、みそかにこの事の有様を御消息にて告げ申し給へりけり。--『水鏡』中 四十一代 天武天皇
  • 此大友皇子の妻にては、春宮の御女ましましければ、父の殺され給はん事をかなしみ給ひて、『いかで此事告げ申さん』とおぼしけれど、すべきやう無かりけるに、思ひわび給ひて、鮒のつつみやきの有りける腹に、ちひさくふみをかきて、おし入れて奉り給へり。--『宇治拾遺物語』清見原天皇与大友皇子合戦ノ事
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