団藤重光

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団藤重光(だんどう しげみつ、1913年11月8日 - 2012年6月25日)は、日本の法学者。

『法学の基礎 第2版』[編集]

  • はわれわれにとって所与ではなくて課題である。法は、つねに形成――しかも主体的な形成――の途上にあるといってよい。ファウストは、メフィストフェレスに、「わたしが瞬間にむかって、『止まれ、お前はかくも美しい!』といったら、わたしは滅びてもいい」と約束し、快楽と苦悩の長い遍歴の最後に、ついに、そのことばを発すると同時に地上に倒れ、やがて天上に上げられる。苦悩に充ちた未完成こそが人間の姿であり、完成は人間の終焉である。人間社会の反映としての法もまた、永遠に未完成なものであり、つねに形成途上のものである。
    • p.7
  • 道徳の理念は善である。習俗には理念はない。これに対して、法の理念は正義である。法が機能する主要な場面としての「司法」が西洋語で例外なく「正義」(justice, Justiz, giustizia, justicia, юстиция)で現されるのも、これを象徴していると思われる。「法」ないし「権利」を示す西洋語の大部分(right, Recht, droit, diritto, derecho, правоなど)が「正しさ」、「真っ直ぐしたもの」の意味を持っているのも偶然ではない。
    • p.29
  • ワシントンにあるアメリカ連邦最高裁判所の壮麗な建物の正面玄関の上には、「法のもとにおける平等な正義(Equal Justice Under Law)」の字句が刻まれている。これは、古典的な市民法的正義を現したものであるといえよう。これに対して、ロンドンの中央刑事裁判所――いわゆる「オールド・ベイリー」――の正面には、「貧しき者の子らを守り、悪人を罰せよ(Defend the Children of the Poor & Punish the Wrongdoer)」という字句がみられる。これは、抽象的な正義といったものでないところに面白味がある。
    • p.31
  • もし、法が全面的に社会道徳から見離されるような状態になったときは、それは、法がもはや法として機能することができなくなったことを意味する。
    • p.35
  • 法規範は、しかし、多くの場合、裁判規範としてはたらく前に行為規範としてはたらく。「人を殺してはならない」、「人に損害をあたえてはならない」という法規範――それは法規に直接の明文はないが、刑法の殺人罪の規定や民法の不法行為の規定の背後に当然に予想されている法規範である――が、まず行為規範としてはたらく。
    • p.52
  • 法においては、本人にとって可能であったことを前提として、本人に非難を帰することができる。「法律は不能を強いない(Lex non cogit ad impossibillia.)」といわれるのも、この意味を含むであろう。カントは道徳について、「汝なすべきがゆえに、汝なすことができる(Du kannst, denn du sollst.)」とした。道徳については、かような厳しさが要求されるかも知れない。しかし、法の世界――ことに刑法のような領域――では、「汝なすことができるゆえに、汝なすべきである(Du sollst, denn de kannst.)」といわなければならない。
    • p.53
  • 連合国の方針は日本の民主化の実現にあったが、その実現の方式自体は非民主的であり、また、連合国の利益を守るためには、内容的にも非民主的なものを押しつけた。
    • p.73
  • 「後法が前法を廃止する(Lex posterior derogat priori.)」あるいは「特別法は一般法に優先する(Lex specials derogat legi generali.)」という原則、あるいは、上位の法規が下位の法規よりも強いという原則などによって、ある程度までは形式的に処理されるが、こうした処理ができない限りは、解釈によって解決するほかないし、それが解釈の範囲を超えるときは、立法による解決を待つ以外にない。
    • p.86
  • 「法律」ということばは、本文中にも述べたように、「法」の意味にも使われる。「法律学」「法律哲学」などというのがそれである。近時は、この意味に「法」の語を当てることが多く、「法学」「法哲学」などというのが次第に慣用されるようになって来ている。しかし、現在でも「法律行為」(民法90条以下)、「法律関係」(行政事件訴訟法4条)のように、法典用語として「法律」が「法」の意味に用いられている場合が少なくない。外国語でも――英語は別として――たとえばラテン語では≪jus≫と≪lex≫、ドイツ語では≪Recht≫と≪Gesetz≫、フランス語では≪droit≫と≪loi≫、ロシア語では≪право≫と≪закон≫というように、言葉が区別されている。これらの中、前者が「法」にあたり、後者が「法律」または「法規」にあたる。
    • p.124
  • 刑法の領域では、いうまでもなく罪刑法定主義が支配するので、他の成文法国におけると同様に、判例の法源性は否定されている。これは当然のことである。
    • p.167
  • 商法の領域では、商慣習法に民法よりも優先する効力が承認されている。これには商法にそういう規定があるからという形式的理由だけでなく、もっと本質的な理由があるはずである。そうだとすれば、商法以外の領域についても、慣習に制定法よりも優先する効力をみとめるだけの根拠があるときは、法適用通則法3条の規定にかかわらず、これを認めるのが正しいのではあるまいか。以上は、さしあたり、わたくし一個の試論であって、学説による検討を待っている。
    • p.188
  • 英米の法制はコモン・ローと呼ばれる不文法を基本としていて、制定法はそれを修正・補充するために作られるだけである。ゲルダート(W.M.Geldart, 1870-1922)の説明を借りれば、「コモン・ローは、作られたというよりもむしろ、生まれたものである。コモン・ローがいつ始まったか、はっきりした時期を指示することはできない。どこまでイギリスの判決録を遡って行っても、裁判官はすべて、どのような立法者によっても作られたものでないコモン・ローというものがそこに存在する、と仮定していることがわかる」(ゲルダート『イギリス法原理』1958年)。イギリスには、コモン・ローおよび制定法のほかになお、衡平法(Equity)がある。これはもともとはコモン・ローの硬直化を緩和する任務をもったもので、大法官(Chancellor)が「国王の良心の保持者」として裁判をしたが、近代衡平法では、倫理的色彩を残しながらも、先例を尊重し法的な尺度によって裁判を行うようになっている。コモン・ローは普通法裁判所によって、衡平法は衡平法裁判所によって運用される。かように、コモン・ローと衡平法とは別の体型になっているが、ひろい意味では、制定法に対して、この両者を含む非制定法ないし判例法をコモン・ローと呼ぶこともある。コモン・ローの国に対して、ローマ法系の成文法国をシヴィル・ロー(civil law)の国と呼ぶ。こうした特徴をもつ英法をヨーロッパ大陸法の学者の立場から考察した興味深い文献として、ラートブルフ『イギリス法の精神』(1967年)を挙げておこう。
    • p.166
  • 民事訴訟について「口頭弁論の全趣旨」が考慮されうるのに対して、刑事訴訟についてそれが認められていないのは、やはり、刑事訴訟における事実認定が特に厳格でなければならないからである。事実を認定するために必要とされる裁判官の心証の程度についても、民事と刑事とで違いがある。民事ではどちらの証拠が重いかというふうに証明力の強弱を比較して「証拠の優越(preponderance of evidence)」によって決めるが、刑事で有罪の判決をするためには、公訴事実の存否について「合理的な疑いをこえる(beyond a reasonable doubt)」ところの確信を得たことを要する。ところで、民事・刑事それぞれについて、裁判官が右の程度の心証を得たときはその事実を認定することになるが、黒白どちらとも断定できない灰色程度の心証しか得られなかったときは、どうなるか。刑事では、「疑わしいときは被告人の利益に(In dubio pro reo.)」というのが大原則であり、これを「無罪の推定(presumption of innocence)」ともいう。無罪の推定は、世界人権宣言(Universal Declaration of Human Rights; De’claration Universelle des Droits de l’Homme)にも謳われている(その11条1項)。検察側で黒であることを立証しないかぎり、白の場合はむろんのこと灰色の場合も被告人は無罪になるのだから、専門用語では、検察側に挙証責任があるという。これに対して、民事では、事実の存否についてはっきりした心証が得られないときに、原告・被告のどちらに有利に解決するべきかは、一概にいえない。それは事柄によって違うべきはずであり、したがって、民事訴訟では挙証責任はそれぞれの要証事実の性質に応じて、もっと複雑な形で原告と被告とに分配されているのである。なお、民事訴訟では裁判所において当事者が自白した事実は証明しないでよい(民訴179条、なお、159条)といったような当事者処分主義から来る刑事訴訟との違いがあることも、つけ加えておこう。
    • p.216
  • 「衡平(equity; Billingkeit)という観念があるが、これは「個別的事件の正義」(ラートブルッフ)であり、個別的正義にほかならないといえよう。法の理念として一般的正義と個別的正義はともに重要であるが、前者は半面において冷酷をともない、後者は反面において不公平や恣意を招来する。法は何よりもまず公平でなければならないから、一般的正義をどこまでも原則としながら、ただ個別的正義によってこれを補充するという形をとることになるのである。
    • p.226
  • 法が社会事象を規制するのには、定型化の方法はむしろ必然的だといわなければならない。裁判所が裁判をするには、当の事案について、一方では過去の先例との共通点を求め、他方では将来の類似の事案についての先例となるべきことを考慮して、裁判の内容を決める。そこには「この種の事案」という考え方が働くのであり、それはすなわち定型化的思考方法にほかならない。立法も、ほとんど例外なしにといってよいくらい、なんらかの意味で定型化的方法を用いる。
    • p.228
  • 聖トーマスのいったように、「あわれみのない正義は冷酷である(iustitia sine misericordia crudelitas est.)」。しかし、また「正義のないあわれみは解体の母である(misericordia sine iustitia mater est dissolutionis.)」(zitiert nach Henkel, op. cit., S. 323, 2. Aufl. S. 419)。シェークスピアは、『ヴェニスの商人』の中で、ポーシャに「正義は慈悲(mercy)が味つけ(season)すること」が必要だといわせている(4幕1場197行)。それによって、具体的正義が得られるわけである。
    • p.231

関連項目[編集]

Wikipedia
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