平将門

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平將門(903年-940年)[編集]

たいら の まさかど。平安時代中期の武将。通称は相馬小次郎。桓武平氏。承平天慶の乱の一方の首領。

將門記[編集]

叛意の表明[編集]

  • 苟しくも将門は刹帝の苗裔、(高望王の)三世の末葉なり。同じきは八国より始め、兼ねて王城を虜領せんと欲す。今須く先に諸国の印鎰を奪い、一向受領の限り、官堵に追上せん。然らば則ち且つは掌に八国を入れ、且つは腰に万民を附さん。
    苟將門刹帝苗裔、三世之末葉也。同者始自八國、兼欲虜領王城。今須先奪諸國印鎰、一向受領之限、追上於官堵。然則且掌入八國、且腰附萬民。


新皇・平将門より摂政・藤原忠平への書状[編集]

  • 将門謹んで言う、 … 将門は本意にあらざると雖も、(常陸国)一国を討滅せり。罪科は軽からず、百懸に及ぶべし。之に因りて朝議を候(うかが)うの間、且つ坂東諸国を虜掠し了んぬ。昭穆に付案するに、将門はすでに柏原帝王(桓武天皇)五代の孫なり。縦い永に半国(日本の半分)を領するも、豈に運にあらずと謂えんや。 … 将門、傾国の謀を萌せりといえども、何ぞ旧主(忠平)の貴閣を忘れん。
    將門謹言、 … 將門雖非本意、討滅一國。罪科不輕、可及百懸。因之候朝議之間、且虜掠坂東諸國了。付案昭穆、將門已柏原帝王五代之孫也。縱永領半國、豈謂非運。 … 將門雖萠傾國之謀、何忘舊主貴閣。
    天慶2年(939年)12月15日の記年あり。


「冥界消息」[編集]

  • 予は在世の時に、一善をも修せず。此の業報に依り、悪趣に廻れり。我を訴うるの者、只今万五千人あり。痛ましきかな、将門の悪を造るの時、伴類を催し以って犯す。受報の日には、諸罪を蒙り以って独り苦しむなり。身を受苦の剣林に置き、肝を鉄囲の煨燼に焼く。楚毒の至痛なることは、敢えて言うべからず。
    予在世之時、不修一善。依此業報、廻於惡趣。訴我之者、只今萬五千人。痛哉、將門造惡之時、催伴類以犯。受報之日、蒙諸罪以獨苦也。置身於受苦之劍林、燒肝於鐵圍之煨燼。楚毒至痛、不可敢言。
  • 但し一月の内に、只だ一時の休あり。其の由何となれば、獄吏の言う、汝在世の時、誓願せる所の金光明經一部の助なり、と。冥官の暦に云う、十二年を以って一年と為し、十二月を以って一月と為し、三十日を以って一日と為す、と。之を以って之を謂えば、我が日本国の暦にて、九十二年に当たる。彼の本願もて此の苦を脱すべし。
    但一月之内、只有一時之休。其由何者、獄吏言、汝在世之時、所誓願之金光明經一部之助者。冥官暦云、以十二年爲一年、以十二月爲一月、以卅日爲一日。以之謂之、我日本國暦、當九十二年。彼本願可脱此苦者。
  • 抑々閻浮の兄弟、娑婆の妻子、他の為に慈を施し、悪を為し善を造る。口に甘しと雖も、恐らく生類を食すべからず。心に惜しむと雖も、而れども好みて仏僧に施し供すべし、と。亡魂の消息は右の如し。
    抑閻浮兄弟、娑婆妻子、爲他施慈、爲惡造善。雖口甘、恐不可食生類。雖心惜、而好可施供佛僧者。亡魂消息如右。
    天慶3年(940年)6月の記年あり。
  • 或る本に云う、我が日本国の暦に曰く、九十三年内に、其れ一時の休み有るべし、と。今須く我が兄弟等、此の本願を遂げ、此の苦を脱せしむべし、と。
    或本云、我日本國暦曰、九十三年内、可有其一時之休。今須我兄弟等、遂此本願、可脱此苦。
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