貞観地震

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ウィキペディアにも貞観地震の記事があります。

貞観地震(じょうがんじしん)は、平安時代869年に、三陸沖陸奥国東方沖)で発生し、現在の東北地方を中心に大きな被害を出した巨大地震。推定マグニチュード8.3で、大津波も発生した。死者約1000人。2011年東北地方太平洋沖地震東日本大震災)は、貞観地震の再来だといわれる。

貞観地震についての言及[編集]

日本三代實錄』巻十六より[編集]

原文
(貞觀十一年五月)廿六日癸未。陸奥國地大震動。流光如晝隱映。頃之。人民叫呼。伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顚覆。不知其數。海口哮吼。聲似雷霆。驚濤涌潮。泝洄漲長。忽至城下。去海數十百里。浩々不弁其涯涘。原野道路。惣爲滄溟。乘船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。
書き下し文
(貞觀十一年五月)廿六日癸未。陸奥國の地、大いに震動す。流光晝の如く隱映(いんえい)す。頃(しばら)く、人民叫呼(きょうこ)し、伏して起(た)つ能はず。或(あるい)は屋仆(たお)れて壓死し、或は地裂けて埋殪(まいえい)す。馬牛駭(おどろ)き奔(はし)り、或は相(あい)昇踏(しょうとう)す。城郭倉庫、門櫓(もんろ)墻壁(しょうへき)、頽落(たいらく)顚覆(てんぷく)するもの、其の數を知らず。海口(かいこう)哮吼(こうこう)し、聲は雷霆(らいてい)に似たり。驚濤(きょうとう)涌潮(ようちょう)、泝洄(そかい)漲長(ちょうちょう)し、忽ち城下に至る。海を去ること數十百里、浩々(こうこう)として其の涯涘(がいし)を弁ぜず。原野道路、惣(すべ)て滄溟(そうめい)と爲(な)る。船に乘るに遑(いとま)あらず、山に登るも及び難(がた)し。溺死する者、千許(ばか)り、資産苗稼(びょうか)、殆んど孑遺(けつい)無し。
現代語訳
(貞観11年5月)26日癸未(みずのとひつじ)の日。陸奥国(むつのくに)に大地震があった。夜であるにもかかわらず、空中を閃光が流れ、暗闇はまるで昼のように明るくなったりした。しばらくの間、人々は恐怖のあまり叫び声を発し、地面に伏したまま起き上がることもできなかった。ある者は、家屋が倒壊して圧死し、ある者は、大地が裂けて生き埋めになった。馬や牛は驚いて走り回り、互いを踏みつけ合ったりした。多賀城の城郭、倉庫、門、櫓、垣や壁などは崩れ落ちたり覆(くつがえ)ったりしたが、その数は数え切れないほどであった。河口の海は、雷のような音を立てて吠え狂った。荒れ狂い湧き返る大波は、河を遡(さかのぼ)り膨張して、忽ち城下に達した。海は、数十里乃至(ないし)百里にわたって広々と広がり、どこが地面と海との境だったのか分からない有様であった。原や野や道路は、すべて蒼々とした海に覆われてしまった。船に乗って逃げる暇(いとま)もなく、山に登って避難することもできなかった。溺死する者も千人ほどいた。人々は資産も稲の苗も失い、ほとんど何一つ残るものがなかった。

清原元輔 より[編集]

原文
契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは 【清原元輔】(『後拾遺和歌集』恋四収録。藤原定家の『小倉百人一首 (42) 』にも収録。)
現代語訳
約束したのにね、お互いに泣いて涙に濡れた着物の袖を絞りながら。末の松山を波が越すことなんてあり得ないように、決して心変わりはしないと。
解説
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ウィキペディアにも末の松山の記事があります。
末の松山」は、現在の宮城県多賀城市八幡の独立小丘陵にある景勝地。国の名勝でもある。平安時代の貞観地震の時も、2011年の東北地方太平洋沖地震の時も、大津波は末の松山の近くまで押し寄せたが、末の松山を越えることは遂になかった。このように貞観地震は、現代の人々に馴染みのある百人一首でも言及されており、それほど歴史的な出来事であったことが伺える。