ハインリヒ・ヒムラー
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ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー(Heinrich Luitpold Himmler, 1900年 - 1945年)はドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の親衛隊(SS)の第4代親衛隊全国指導者。ナチ党の政権掌握後、全ドイツ警察長官やヒトラー内閣内務大臣などを歴任し、ドイツの警察権力を掌握した。第二次世界大戦中にはヨーロッパのユダヤ人に対してホロコーストを組織的に実行した。ホロコーストで殺害されたとされる600万人のユダヤ人をはじめとして、ロマ・ポーランド人・カトリック聖職者・ロシア人捕虜・エホバの証人・障害者・同性愛者等、諸々の虐殺に対し責任を負う。第二次世界大戦終戦時にアメリカ合衆国との講和交渉を試みたが失敗し、捕虜になった後に自殺している。
語録
[編集]ヒムラー自身の発言
[編集]青年期の日記の記述
[編集]- 「8時になって父さんと教会へ行って聖体拝領。それから勉強。机に向かって祈る。今日は防衛演習があった。僕も一緒にやりたい」(1914年10月11日付け)[1]
- 「東部戦線でもう一度戦争があれば絶対に行く。我々ドイツ人にとって東方が一番大事である。西側はだめだ。すぐに死滅する。東方で戦い、そこを植民地にしなければならない。」(1919年11月22日付け)[2]
- 「僕はまた心の中で戦っている状態だ。命がけの状態がまだあって、それを乗り切って戦うことができたならどれだけ心の慰めになるだろう。」(1919年11月)[3]
- 「なんて哀れな創造物だ。人間は」(1919年11月7日付け)[4]
- 「フラウ・ケルンベルガーを見舞う。可哀そうな老女なり。惨めの一言に尽きる。飢えと消耗で体が弱り、歩くこともままならない。水のようなスープをすすり、お茶ばかり飲んでいる。哀れなり。家に戻りロールパンをとってくる。それに小さなケーキを添え、老女に気付かれないようにそっと置いておく。もっといろいろなことをやってあげられるといいのだが、我々だって貧乏だから。」(1921年の日記)[5]
- 「今日僕は、ペルー移住について書かれた記事を切り抜いた。僕はどこへ辿り着くのだろう。スペイン、トルコ、バルト諸国、ロシア、ペルー? 僕はよくこのことについて考える。二年後には、僕はドイツにはいないだろう。」(1921年11月23日付け)[6]
- 「私はおしゃべりの広目屋だ。駄弁家だ。空元気でよくしゃべる。そして何もできない。」(1922年1月29日付け)[2]
親衛隊について
[編集]- 「我々はどこへ行っても好かれる訳ではない。時には成し遂げた行いの故に片隅に追いやられることもあろう。感謝を期待してはならない。だが総統はSSの真価をよく御存じだ。我らは総統に最も愛される、最も価値のある組織である。我らは絶対に総統の期待を裏切らないからだ。」(1931年6月13日、親衛隊幹部会での発言)[7]
- 「我々に課せられた目下の急務は総統と国家社会主義の公然、隠然たる敵を暴き、これと闘い、撲滅することである。この任務を遂行するために我々は自らの血のみならず、他人の血をも流すことを覚悟せねばならない。」(1934年1月1日、親衛隊員に向けて)[8]
- 「親衛隊員は己に対しても他人に対しても常に非情であれ。義務以上の物を果たせ。」(ヒムラーが各地でよく行っていた演説)[9]
- 「この黒いユニフォームを見ると気分が悪くなるという人がドイツに大勢いるのを私は知っている。我々はそれを分かっているし、愛されることを期待していない」(1936年)[10]
- 「品種改良をやる栽培家と同じだ。立派な品種も雑草と交じると質が落ちる。それを元に戻して繁殖させるわけだが、我々はまず植物選別の原則に立ち、ついで我々が使えないと思う者、つまり雑草を除去するのだ。私は身長5フィート8インチ(約173センチ)の条件で始めた。特定の身長以上であれば、私の望む血統を有しているはずだからである」(親衛隊の入隊基準について)[11]
- 「私は常にこの男(親衛隊入隊希望者)にどこか外国人の血が混じってはいないか、ということを考える。たとえば張り出した頬骨はモンゴル民族か、少なくともスラブ民族の特徴といえないかなと。1918年と1919年の兵士委員会(Soldaten Rat。ドイツ革命の際に左翼兵士たちが創設した組織)の連中の特徴を思い出してほしい。当時将校だった者は今確信をもって言えるだろう。彼らが我々ドイツ人の眼に奇異に映る特徴を持ち、外国人の血をどこかに持っていたことを。」[12]
- 「可能な限り世界からゲルマンの血を結集するのが私の真の目標である。連隊『ゲルマニア』(親衛隊特務部隊第二連隊『ゲルマニア』のこと)は、いわれなくその名を冠しているわけではない。遅くとも二年後には『ゲルマニア』は非ドイツ人ゲルマン人によって構成される部隊にしたいと私は考えている。」(1938年11月8日)[13]
ヒトラーについて
[編集]- 「ヒトラーが命じれば、私はたとえ実の母親でも撃ち殺すだろう。そしてそんな命令を下すほど信頼してくれたことを誇らしく思うだろう。」(1925年、オットー・シュトラッサーに対して語った言葉)[14]
- 「ドイツ民族が本当にどうしようもなくなった時、ヒトラーは我らの最も深い苦しみの中から生まれ出た。ゲルマン精神が危機に陥った時、ドイツには常に偉大な光の人物が現れるが、彼はその一人である。精神の分野ではゲーテが、政治の分野ではビスマルクがそのような人物であった。だが総統は、政治・文化・軍事すべてにおいて偉大な光の人物である。」(1940年)[15]
- 「ケルステン!君は誰と口をきいたと思っているんだ?総統のお声を聞いたのだぞ!なんという運のいいやつだ。すぐ奥さんに手紙を書きたまえ。奥さんは君がそんな好運に会ったことを喜ぶだろう。」(ヒムラーのマッサージ師フェリックス・ケルステンがヒトラーからヒムラーへ電話を取り次いだ際、ケルステンに言った言葉)[16]
ユダヤ人について
[編集]- 「ユダヤ人は投機や市場操作によって、生産価格を下げたまま消費者価格を釣り上げ、その結果、常に農民の所得は少なく、都市生活者の出費が増え、その中間の莫大な利益はユダヤ人とそれを巡る業者が吸い上げている」(1924年)[17]
- 「(反ユダヤ主義とは)人類と下等人種の戦いである。これはあたかも人々が病気と戦ったり、健康体がペスト菌と戦うようなものであり、自然の法則である。」[18]
- 「総統はユダヤ人問題の最終的解決を命令なさった。我々親衛隊はこの命令を完遂しなければならない。東部に今ある絶滅施設は、予定される大作戦を遂行できる状態にはない。よって私はアウシュヴィッツをこの作戦遂行施設に指定した。困難な仕事だが直ちに実行しなければ、我々がユダヤ人を絶滅させる代わりに、いずれユダヤ人が我々を絶滅させるだろう。」(1941年夏。アウシュヴィッツ所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスに対して言った言葉。ヘスの証言)[19][20]
- 「我々を殺そうとしたこの民族を、我々には殺す道徳的権利があり、また我々の民族に対してそうする義務を負った。しかし毛皮一着、時計一つ、一マルク、煙草一本、その他何一つ着服する権利はない。」(一部の親衛隊員が没収したユダヤ人財産を横領していることについての言葉)[21]
- 「ああ、私はユダヤ人虐殺などしたくなかったのだ。私の考えはまったく違っていた。それなのにゲッベルスの奴がいっさいがっさいをしでかしたのだ」(1942年9月、フェリックス・ケルステンに語った言葉)[22]
- 「ここだけの話として極めてオープンに話す。ユダヤ人移送、ユダヤ民族絶滅のことである。口にするだけなら簡単なことだ。『ユダヤ民族は絶滅される』。党員なら誰でもそういう。あたりまえだ。党綱領にそう書いてある。すると8000万人の立派なドイツ人がやって来てその一人一人がお気に入りのユダヤ人を連れてくる。他のユダヤ人は豚だが、この人は素晴らしい人だという。こんなことをいう連中に努力をした者はいないし、実行した者もいない。100人、500人、1000人と死骸が積み上げられれば、それがどういうことなのか、諸君のほとんどが知ることになろう。これを耐え抜いたこと、そしてその際も、若干の人間的弱さは例外だが、品格を保っていられたこと。それによって我々は強くなるのである。これはこれまで書かれてこなかった、そしてこれからも書かれることはないであろう、我らが歴史の栄光の1ページである。」(1943年10月4日、ポーゼンで親衛隊中将達にむけて)[23][24]
- 「反ユダヤ主義はシラミの駆除と同じことだ。シラミを駆除することは何ら世界観の問題ではない。それは清潔さの問題である。まもなくシラミはいなくなる」(1943年、ハリコフでの演説)[25]
東方諸民族について
[編集]- 「東方の非ドイツ人は、小学校四年までの教育で十分である。算数は500以上の数字を使わない簡単な計算だけ、国語は自分の名前さえ書ければよい。そして、ドイツ人に従うことが神によって定められた法であるという原則を教えることだ。」 [26]
- 「ポーランド人がどういう暮らしをしようと我々の知ったことではない。連中は奴隷として必要なのであり、我々の役に立ちさえすればいいのだ。」[26]
- 「この戦いは国家社会主義の戦いであり、我がゲルマンの、北方人種の高貴な血に基づいた世界観のための戦いである。我々が考える世界とは美しく、気高く、平等で、優れた文化を持つ幸せな美しい世界である。それこそドイツにふさわしい世界である。だが我々と別に1億8000万人もの雑多な人種がいる。発音しにくい名前を持つ体格の悪い連中だ。そんな連中は憐れみをかけずに撃ち殺せばよい。こうした人間どもは、ユダヤという一つの宗教と共産主義という一つのイデオロギーの下に統合されている。諸君らが東方で戦っている相手はこうした人間以下の劣等人種なのである。ある時はフン族、またある時はマジャール、さらにはタタール、チンギス・ハン、モンゴルと。名前を変えても劣等人種に変わりはない。」 [27]
- 「我々は同じ血の流れる民族同胞に対してのみ愛を持つ。ロシア人やチェコ人がどうなろうと、私はいささかの関心も持たない。他国に我らと同じ純血が残されているのであれば、連れ戻そう。必要とあれば子供を誘拐して我々の下で育てよう。他国民の繁栄もしくは餓死は、彼らが我々の奴隷として必要になる限りにおいて、私の関心事となる。1万人のロシア人女性がドイツ軍の対戦車壕を掘るために倒れたとしても、私が関心を持つのは、ドイツ軍の対戦車壕が完成するかどうかだけである。」(1943年10月4日)[24]
キリスト教について
[編集]- 「キリスト教と最終的な決着をつけるべき時代に我々は生きている。これからの50年、ドイツ民族が生存し、生殖するための世界観的根本思想をキリスト教の外に求められるかどうかは親衛隊の双肩にかかっている」(1937年)[28]
同性愛者について
[編集]- 「ドイツは先の大戦で200万人の男性を失い、さらに同性愛者200万人を抱えている。ドイツ民族の出生力には400万人のロスが生じている。このままではドイツは50年先、100年先には列強たる地位を失い、スイス化してしまっているだろう。同性愛者たちは自分たちのしていることは私的なことだから構わないでくれというが、ことは個人の問題では済まされず、民族の生死にかかわる問題である」[29]
強制収容所について
[編集]- 「強制収容所は確かに苛酷な措置である。新たな価値を作り出すための不屈の作業。きちんとした経歴。住居と身体を極めて清潔に保つこと。文句なしの食事。厳しいが公正な待遇。改めて仕事を習得し、手仕事の能力を得るための指導。これらは教育の方法論である。これら収容所を統轄するスローガンを次のように定める。すなわち、自由へ至る道が一つある。その道の里程標は、服従・勤勉・誠実・秩序・清潔・真面目・正直・献身、そして祖国への愛である」[30]。
- 「この手のキリスト教的医者どもは若いドイツ人パイロットの生命は危険にさらされても当然だが、犯罪者の生命は神聖なので、自らの手を彼らの血で汚したくないと、そう考えているわけだ。」(強制収容所で行われる空軍のための人体実験を批判する医学者に対する反論)[31]
- 「我々はその必要がないところでは決して粗暴であったり無情であったりするつもりはない。我々ドイツ人は世界で唯一動物に品格ある態度を取るのであるから、強制収容所の動物人間どもに対しても品格ある態度を取るであろう。」[32]
- 「ドイツがもはや崩壊するというのであれば、現在収容所にいる犯罪者どもの群れに勝者として解放されるという勝利の体験をさせるわけにはいかない。奴ら諸共破滅させよ。これは総統の確たる命令である。私はこの命令をきわめて精確に徹底的に遂行せねばならない」(1945年)[33]
敗戦直前
[編集]- 「おそらくヒトラーはすでに死んでいるだろう。まだだとしても数日中に死にます。今日まで私は自分の誓いに縛られてきた。だが今は違う。状況はすっかり変わった。ドイツの敗北を認めます。これからどうすべきでしょうか。」(1945年4月24日、アメリカへの仲介役を頼んだスウェーデン外交官フォルケ・ベルナドッテ伯爵に。)[34]
- 「単に頭を下げるだけにするか、それとも握手を求めて手を差し出すべきか・・・。」(1945年4月後半。アメリカ軍のドワイト・D・アイゼンハワーと会見する日を想像してヴァルター・シェレンベルクSS少将に聞いた言葉。しかしアメリカ側がヒムラーの会見の提案に応じることはなかった。)[34]
- 「みなは私に犯罪の責任をすべてなすりつけようとするだろう。ヒトラーが一人で犯し、私がいつも阻止しようとしていた犯罪の。」(1945年4月後半。フェリックス・ケルステンに語った言葉)[35]
人物評
[編集]他のナチ党幹部・政府閣僚から
[編集]- 「彼は小柄で好ましい男だ。温厚だが、おそらく優柔不断でもあろう。」 (ヒトラー内閣宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの1929年の日記の記述)[36]
- 「ヒムラーはとりたてて賢いとは言えないが、勤勉で実直である。」 (1930年4月28日のゲッベルスの日記の記述)[37]
- 「ローゼンベルクとヒムラーとダレは、ばかばかしい儀式をやめるべきだ。ばかばかしいドイツ崇拝は全部やめさせねばならない。このようなw:サボタージュをする連中には武器だけを持たせよう。」 (1935年8月21日のゲッベルスの日記の記述)[38]
- 「彼は半分は学校教師。半分はつむじ曲がりの道化だった。」 (1953年、ヒトラー内閣軍需相アルベルト・シュペーア)[37]
- 「ヒムラーは見たところちっぽけな男に見えた。しかし実は『ちっぽけ』などではなかった。彼には特筆すべき才能があった。人の話に耳を傾ける才能。決定を下す前に長い間考慮する能力。自分の指揮に従う人間を選び出す手腕。これらをすべて併せ持つとどれほど効果的であるか、彼を見るとわかった。」 (1979年、シュペーア)[39]
- 「ヒムラーは特性のない男でした。彼から深い印象を受けたことはありません。同席した時はいつも親切でした。いつも優しくて愛想のいい感じでした。」 (マルティン・ボルマンの息子マルティン・ボルマン・ジュニア)[40]
- 「父とヒムラーはこんな理念を話していました。戦争が終わったらドイツ民族が被った犠牲を速やかに埋め合わせるために人種的に価値のあるドイツ人男性は、複数の妻を持てるようにするべきだ、という理念です。もっとも父もヒムラーも金髪碧眼の輝かしいゲルマン人のようにはとても思えませんでしたが…。」 (マルティン・ボルマン・ジュニア)[41]
- 「ヒトラーが政治的廃棄物処理を任せるのに彼(ヒムラー)ほどふさわしい男はいなかった。あの男は恐怖組織を事細かに作り上げ、慈悲も後悔も知らなかった。」 (ヒトラー内閣蔵相ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク伯爵)[42]
- 「ヒムラーは好感を持てるとか、魅力的だとかいう特性のある人物ではなかった。その点で彼はヒトラーやゲッベルスとは全く異なる。この二人は必要とあれば実に愛想よく魅力的にふるまったものだったが。それに対してヒムラーはことさらつっけんどんでストレートな態度をとり、傭兵のような素振りと反ブルジョワ感情を誇示した。どうやらそれで生来の情緒不安定と不器用さを隠そうとしただけだったようだが。だがそれだけならまだ我慢できる。あの旅の途中、ヒムラーが同行者としてほとんど耐え難いまでになったのは、彼が私にひっきりなしに浴びせかけたあの根本的に空しい馬鹿げたおしゃべりのせいだった。こう言っても過言ではないと私はいまも尚信じるが、あれほど大量の政治的たわごとを、あれほど集中的な形で、高等教育を受けた人間がしゃべりまくるのを私は見たことがない。好戦的な大ぼら吹き、行きつけの居酒屋でくだを巻く小市民、目を血走らせて予言するさすらいの伝道者。それらが奇怪に混ざり合ったもの、それがヒムラーのあの延々たるおしゃべりだった。」(1929年にハインリヒと6時間列車に同乗したナチ党ハンブルク大管区指導者アルベルト・クレープスのその時についての戦後の回想)[43]
部下の親衛隊員・親衛隊関係者から
[編集]- 「ヒムラーはサディスティックというのではなく、けちでつまらない人間だった。彼は元学校教師で[44]、いつまでも教師根性が抜けなかった。他人を罰するのに快感を覚えていたのだ。教師が子供に必要以上に鞭を打ち、そこから快感を得るのと同じように。これは真の意味でのサディズムとは異なる。つまり、ヒムラーは他人を教育して向上させることが自分の義務と思っていたのだ。このことと強制収容所でのユダヤ人虐殺とは無関係だ。虐殺が行ったのは、ヒムラーが奴隷のようにヒトラーに服従したためだと私は思う。」(国家保安本部長官エルンスト・カルテンブルンナー親衛隊大将。ニュルンベルク裁判で拘禁されていた際にアメリカの精神分析医からの「ヒムラーはどのぐらいサディスティックだったか」という質問に対して)[45]
- 「ヒムラーは優しい父親にも公正な上司にも親しみのもてる人物になることもできた。しかし同時に彼はとりつかれたような狂信者でもあり、ゆがんだ夢想家でもあり、ヒトラーに操られる意志なき人形でもあった。彼はますます強くなっていく愛とも憎しみともつかぬ思いでヒトラーと結ばれていた。」 (親衛隊大将カール・ヴォルフ)[46]
- 「外見上は教師のようで、彼の外交政策もその程度のものだった。だから、外交問題では簡単に彼を説得できた。他の分野ではヒムラーは計り知れない人物であり、理解しがたかった。彼は臆病者であり、勇敢な人間ではなかった。あらゆる困難を回避しようとした。私がリッベントロップと対立している時も、ヒムラーは私を擁護しようとはしなかった。その臆病さゆえに、強力で挑発的なヒトラーの言うことすべてにヒムラーは同意したのだ。(ユダヤ人虐殺は)ヒトラーが考え出したに違いない。ヒムラーには軍人の勇敢さはなく、勇ましい決断をする能力はなかったからだ。」(SD対外局長ヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将、ニュルンベルク裁判に証人として出頭した際にアメリカ人の精神分析医に)[47]
- 「ほとんど小柄といっていい男で東洋人を連想させる顔つきだった。彼はスポーツマン・タイプではなかった。リラックスしたり、飛び跳ねたりする代わりに、自分の内面にこもるタイプだった。」(フェリックス・ケルステン)[48]
- 「ヒムラーは、女性に対しては特に丁重に接した。きわどい表現や猥褻な冗談を毛嫌いしていた。それらは自分の母親への侮辱であるとみなしていた。」(フェリックス・ケルステン)[46]
- 「ヒトラーやゲーリングには、国民は歓声の声を浴びせていた。しかしヒムラーが歓声を受けていた場面を私は見たこともともに体験したこともない。」(親衛隊大佐エルンスト・ギュンター・シェンク)[39]
- 「(親衛隊の)隊員は最高指導者(ヒムラー)との精神的つながりを持たなかった。彼らはただ、組織をリードする官僚の姿を見ていただけだった」(親衛隊「ゲルマン管理局」職員フランツ・リートヴェーク)[43]
- 「親衛隊全国指導者と最期にあって別れた時のことが、私には忘れられない。彼は生き生きとして実に上機嫌だった。世界が崩れ去ろうとしていたのに、我々の世界が。『さあ、諸君。これで終わりだ。諸君は何をなすべきか知っていよう。』。あの時そう言ってくれさえすれば。それなら私にも理解できた。それなら長い年月彼が我々に説いてきたことと一致した。『理念のために自決せよ!』と。ところが彼は最後の命令としてこう言ったのだ。『国防軍の中に紛れ込め!』」(アウシュヴィッツ強制収容所所長ルドルフ・フェルディナント・ヘス親衛隊中佐)[49]
国防軍から
[編集]- 「この冷酷で、打算的で、腹黒いヒトラー魂の化身は第三帝国で最も強烈な目的遂行タイプで、躊躇を許さぬ男だった」 (陸軍大将フリードリヒ・ホスバッハ)[50]
- 「ヒトラーの従者の中で最も不可解な男は親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーだ。目立たない男で、人種上の劣等的特徴をすべて備えていた。表面的には単純な男を装っていた。礼儀正しくあろうと心掛けていた。彼の生活様式はゲーリングと正反対だった。スパルタ的に質素だった。けれども彼の空想はそれだけにいっそう極端だった。彼は他の天体から来たようだった。」 (陸軍上級大将ハインツ・グデーリアン)[51][50]
- 「教養高い校長先生のようで暴力を好まない人だった。注意深い聴き手として稀有な素質を持っていた。物静かで、感動がなく、神経を持たない人間のようだった。」(陸軍少将ヴァルター・ドルンベルガー)[50]
出典
[編集]- ↑ 『ヒトラーの親衛隊』84ページ
- ↑ 2.0 2.1 『ナチス親衛隊』22ページ
- ↑ 『ヒトラーの親衛隊』86ページ
- ↑ ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)50ページ
- ↑ ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』(東洋書林)21ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上』167ページ
- ↑ 『ナチス親衛隊』65ページ
- ↑ 『ゲシュタポ・狂気の歴史』(講談社学術文庫)125ページ
- ↑ ヨッヘン・フォン・ラング編『アイヒマン調書 イスラエル警察尋問録音記録』(岩波書店)135ページ
- ↑ 『ヒトラーと第三帝国』102 - 103ページ
- ↑ 『ナチス親衛隊』61ページ
- ↑ ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)61ページ
- ↑ 『武装SS』77ページ
- ↑ 『ヒトラーの親衛隊』94ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上』165ページ
- ↑ ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)51ページ
- ↑ ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)53ページ
- ↑ ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)321ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上』195ページ
- ↑ 『ニュルンベルク・インタビュー 下』218ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上』194ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上』199ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上』193ページ
- ↑ 24.0 24.1 『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語』148ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上』154ページ
- ↑ 26.0 26.1 『ホロコースト全史』137ページ
- ↑ 『ホロコースト全史』201ページ
- ↑ 『ヒトラーの親衛隊』112ページ
- ↑ 山本秀行著『世界史リブレット49 ナチズムの時代』(山川出版社)38 - 39ページ。ISBN 978-4634344907
- ↑ 『ヒトラーの共犯者』154ページ
- ↑ 『ヒトラーの親衛隊』126ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上』203ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者』155ページ
- ↑ 34.0 34.1 『ナチス親衛隊』239ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上』207ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上』163ページ
- ↑ 37.0 37.1 『ヒトラーの共犯者 上』153ページ
- ↑ 『ヒトラーの親衛隊』107ページ
- ↑ 39.0 39.1 『ヒトラーの共犯者 上』190ページ
- ↑ 『ヒトラーの親衛隊』81ページ
- ↑ 『ヒトラーの親衛隊』99ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上』189ページ
- ↑ 43.0 43.1 『ヒトラーの親衛隊』98ページ
- ↑ カルテンブルンナーはなぜかハインリヒを「元学校教師」と言っているが、ハインリヒが学校教師だったことはない。ハインリヒの父ゲプハルトが学校教師であった。
- ↑ 『ニュルンベルク・インタビュー 上』74ページ
- ↑ 46.0 46.1 『ヒトラーの共犯者 上』169ページ
- ↑ 『ニュルンベルク・インタビュー 上』328ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上』180ページ
- ↑ 『ヒトラーの親衛隊』139ページ
- ↑ 50.0 50.1 50.2 ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)37ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上』175ページ
参考文献
[編集]- ハインツ・ヘーネ『SSの歴史 髑髏の結社』森亮一(訳)、フジ出版社、1981年、ISBN 4-89226-050-9
- ハインツ・ヘーネ『SSの歴史 髑髏の結社 上』森亮一(訳)、2001年、講談社学術文庫、ISBN 978-4061594937
- ハインツ・ヘーネ『SSの歴史 髑髏の結社 下』森亮一(訳)、2001年、講談社学術文庫、ISBN 978-4061594944
- レオン・ゴールデンソーン著『ニュルンベルク・インタビュー 上』(河出書房新社)ISBN 978-4309224404
- レオン・ゴールデンソーン著『ニュルンベルク・インタビュー 下』(河出書房新社)ISBN 978-4309224411
- グイド・クノップ著、高木玲訳『ヒトラーの共犯者 上』(原書房)ISBN 978-4562034178
- グイド・クノップ著、高木玲訳『ヒトラーの親衛隊』(原書房)ISBN 978-4562036776
- ゲリー・S・グレーバー著、滝川義人訳『ナチス親衛隊』(東洋書林)ISBN 978-4887214132