菅原孝標女
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菅原孝標女(すがわら の たかすえ の むすめ、1008年 - 1059年以降) は平安時代の貴族の女性。本名は伝わらず、父の名前をもって呼び名とする。菅原道真の六世の孫にあたる。『更級日記』の作者。
引用
[編集]『更級日記』
[編集]- 東路の道の果てよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひ始めけることにか、世の中に物語といふもののあなるを、いかで見ばやと思ひつつ、つれづれなる昼間、宵居などに、姉・継母などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでかおぼえ語らむ。
- 冒頭。「奥つ方」とは常陸国。このとき父が受領として赴任していた。
- 源氏を一の卷よりして、人も交らず、几帳のうちにうち臥して、ひき出でつつ見る心地、后の位も何にかはせむ。夢にいときよげ僧の、黄なる地の袈裟着たるが来て、「法華経五巻をとくならへ」といふと見れど、人にもかたらず、いふとならはむとも思かけず、物語の事をのみ心にしめて、われはこのごろわろきぞかし、さかりにならば、かたちもかぎりなくよく、髪もいみじく長くなりなむ。光の源氏の夕顔、宇治の大将の女君のやうにこそあらめと思ひける心、まづいとはかなくあさまし。
- 親 なりなば、いみじうやむごとなくわが身もなりなむなど、ただゆくゑなき事をうち思すぐすに、親からうじて、はるかに遠きあづまになりて、「年ごろは、いつしか思ふやうに近き所になりたらば、まづむねあく許しかしづきたてて、ゐてくだりて、海山のけしきも見せ、それをばさる物にて、わが身よりもたかうもてなしかしづきて見むとこそ思ひつれ、我も人も宿世のつたなかりければ、ありありてかく遥かなる国になりにたり。おさなかりし時、あづまのくににゐてくだりてだに、心地もいささかあしければ、これをや、この国に見すてて、まどはむとすらむと思ふ。人の国のおそろしきにつけても、わが身ひとつならば、やすらかならましを、ところせう引き具して、いはまほしきこともえいはず、せまほしきこともえせずなどあるが、わびしうもあるかなと心をくだきしに、今はまいておとなになりにたるを、ゐてくだりて、わがいのちもしらず、亰のうちにてさすらへむはれいのこと、あづまのくに、ゐなかびとになりてまどはむ、いみじかるべし。亰とても、頼ももしう迎へとりてむと思ふるい、
親族 もなし。さりとて、わづかになりたる国を辞し申すべきにもあらねば、亰に留めて、長き別れにてやみぬべき也。京にも、さるべきさまにもてなして留めむとは思ひよる事にもあらず」と、よるひる嘆かるるをきく心地、花紅葉の思ひもみな忘れてかなしく、いみじく思ひ嘆かるれど、いかがはせむ。
七月十三日にくだる。五日かねては見むもなかなかなべければ、内にもいらず。まいてその日はたちさはぎて、時なりぬれば、いまはとてすだれをひきあげて、うち見あはせてなみだをほろほろとおとして、やがていでぬるを見をくる心地、めもくれまどひて、やがてふされぬるに、とまるをのこのをくりしてかへるに、懐紙 に、
おもふ事心にかなふ身なりせば
秋のわかれをふかくしらまし
とばかりかかれたるをも、え見やられず、事よろしき時こそこしおれかかりたる事も思ひつづけけれ、ともかくもいふべき方もおぼえぬままに、
かけてこそもはざりしかこの世にて
しばしもきみにわかるべしとは
とやかかれにけむ。いとど人目も見えず、さびしく心ぼそくうちながめつつ、いづこばかりと、あけくれ思やる。道のほども知りにしかば、はるかにこひしく心細きことかぎりなし。明くるより暮るるまで、東の山ぎはをながめてすぐす。- 父孝標が晩年に再び東国のある国司となり家族を置いて赴任していくときの描写。この頃平忠常の乱があり東国は不穏であった。