ヨーゼフ・ゲッベルス
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パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(Paul Joseph Goebbels, 1897年 - 1945年)は、ドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党第3代宣伝全国指導者、初代国民啓蒙・宣伝大臣。「プロパガンダの天才」「小さなドクトル」と称され、アドルフ・ヒトラーの政権掌握とナチス党政権下のドイツの体制維持に辣腕を発揮した。敗戦の直前、ヒトラーの遺書によってドイツ国首相に任命されるが、直後に自殺した。
語録
[編集]ゲッベルス自身の発言
[編集]憂国・政府批判
- 「シュトレーゼマン(当時の外相)がロカルノ会議に出かける。西欧列強にドイツを売り飛ばすつもりだ。たらふく食ってるデブの豚め!ゼーフェリンク(同、内相)は、プロイセンでヒトラーが演説するのを禁止している。『ヒトラーは外国人』などと言って、ヒトラーを国外追放にすると脅している。社民党の卑怯者、悪党!しかも連中は共和国の良心の自由を大声で叫ぶ!お上品な観念的たわごと!間もなく僕らは牢獄に入れられるだろう。だが気にすることはない。『ジタバタするな!だが旗を手放すな!』」(1925年10月2日付の日記)[1]
- 「ロカルノ条約が発表された。ひどいものだ。ドイツの政治家がどうしてこんな屈辱的な条約を受け入れられるんだ!? シュトレーゼマンは全くの悪党だ。条約は受け入れられなければならない。資本家が望むからだ。現在のドイツで発言権があるのは資本家だけだ。かつてラーテナウは世界そのものが私的な一大資本合同だと言った。今それが姿を現したのだ。」(1925年10月21日付の日記)[2]
- 「僕らの闘争は絶望的だと思いたくなる時がある。考えてもみろ。ドイツの『民族的』分子というのがあんな出来そこない共なんだ。僕らは資本主義に雇われてロシアと戦うことになる。なるべくサボれ。僕らは売られたんだ。結局、資本主義の奴隷となって生きるよりもボルシェヴィズムの側に立って敗れた方がいい。」(1925年10月23日付日記)[3]。
- 「なんという民族だ!自らをズタズタに切り裂いて、民族の最後の痕跡まで消してしまうのか。これが別民族であれば、大衆は拳を振り上げ、抗議のために立ち上がるだろうに。哀れなドイツ!恥知らず!ならず者!ユダヤ人が我々を評価する通りだ!」(1928年の日記)[4]
- 「アルトナ血の日曜日(ハンブルクの港町アルトナで起こったナチ党と共産党の抗争。17名が死亡)に対する政府の回答はデモの禁止だ。これはつまり例をあげれば、女性が集団で町を歩くとならず者が刺激されて暴行する恐れがあるので、以降女性は町を歩いてはならないということだ。この政府は善人も悪人も、誠実も不実も、国家を肯定する者も否定する者も同一のばかげた無分別な厳しさで取り扱う。絶望的な状況だ!僕らがいなければドイツは滅びたと言われるところだ。」(1932年7月18日付日記)[5]。
革命について
- 「真の革命家であるかの基準は、体制に打撃を与えるだけでなく、正しい時期に打撃を与えるということである。用意がすべてである。牢獄に入る、禁止される、殴り倒される、こんな程度の事は誰でもできる。火山のような情熱を持って、怒りを爆発させ、大衆を行進させ、憎悪と絶望を組織化し、さらにそれを冷静に計算しながら、いわば合法的な手段をもって遂行することができるかどうかこそが、真の革命家かエセ革命家かの違いである。」(『闘争時代の論文集』より)[6]
ヒトラーについて
- 「演説家としてのヒトラーは身振り・演技・言葉をものにして、このバランスが実にすばらしい。生まれながらの大扇動演説家だ!彼とならば世界を征服することもできる。彼が思いのままにやれば、腐敗したヴァイマル共和国を根底から揺り動かすだろう。」(1926年6月16日付日記)[7]。
- 「総統を理性で愛そうとするなかれ、感情と心情で敬愛せよ」[8]。
- 「レーニンは最も偉大な人物の一人だった、ヒトラーに次ぐである、そしてレーニン主義とヒトラーの信念の違いは小さい。」(1925年,ニューヨーク・タイムズ)
ユダヤ人について
- 「きみも知っての通り、僕はこの行き過ぎた反ユダヤ主義者たちが嫌いではないかもしれない。確かにユダヤ人は、僕の特別な友人だとは言えないけれども、罵倒や非難、さらに迫害によってユダヤ人を始末してはいけないと思う。たとえそのやり方が許されるとしても、それは高潔ではないし、人間性に悖る。」(1919年、学生時代に友人に宛てて書いた手紙の一部)[9]。
- 「寛大な処置でユダヤ人を感銘させようとしても無駄だ。我々はやろうと思えばどんなことでもできるのだということをはっきりと奴らに思い知らせてやる必要がある」(1933年4月)[10]
- 「ユダヤ人は退廃の悪霊の化身である。腐敗と墜落の兆しが表れると、ユダヤ人は隠れ家から出てきて、諸民族に対して犯罪的な屠殺業を開始する。ユダヤ人はその犠牲者に親しげに近づいてきて、無邪気な相手が気付かないうちに、もうその相手の首の骨をへし折ってしまう。ユダヤ人は非創造的である。彼らは生産をせず、生産物を売買するだけだ。ぼろ、服、絵、宝石、穀物、株、民族、国家などを売買するだけだ。そして彼らが売買する物は全てどこからか盗んできたものである。ユダヤ人は確かに人間だ。だがどういう人間なのか。誰かが君の母親に暴力を振るったら、君はそれでも『ありがとう。彼もまた人間だ』と言えるだろうか。ユダヤ人が我らの母なるドイツにどれほどの暴力を振るってきたことであろうか。そして今なお振るっていることであろうか。我々がドイツ民族の立場に立つ限り、ユダヤ人は敵である。ユダヤ人は全てのドイツ民族にとって大いなる災厄である。」(1936年7月30日付『デア・アングリフ』に寄せた論文)[11]
- 「ホテルへ行こう。そこからなら、空が血の色に染まるのが見える。シナゴーグが燃えている。(中略)私がホテルに入った時、ガラス窓が音を立てて砕け散った。ブラボー、ブラボー。大きな古いほったて小屋のようにシナゴーグが燃える。ドイツの財産は無事だ。」(水晶の夜事件の際の日記の記述)[12]
- 「ユダヤ人のペストは抹殺しなければならない。徹底的にだ。何一つ残してはならない。」[13]
- 「ゲットー(ユダヤ人隔離地域)を走った。車を降りて全てを詳しく観察する。表現のしようがない。こいつらはもはや人間ではない。動物だ。したがって、人道上の問題ではなく、外科医の問題なのだ。ここは切断しなければならない。しかも極めて過激にだ。」(ゲットー視察について。日記の記述)[14]
- 「ユダヤ人は全体的に見て、60%を抹殺しなければならない。残り40%を労働に使用すればよいといえるだろう。全ウィーン大管区指導者(=オディロ・グロボクニク)は、この作戦を実行するにあたっては、かなり慎重に、あまり人目を引かないような措置を取った。ユダヤ人に裁きが下ったのだ。それは確かに残忍な物ではあるが、奴らには当然の報いだ。」(ユダヤ人の絶滅収容所への移送について。日記の記述)[15]
- 「ユダヤ人を絶滅させることが我々の目標である。この戦争に勝とうが負けようが、この目標だけは達成されねばならない。ドイツ軍が後退を余儀なくされようとその途中に、この世界に残っているユダヤ人を殲滅する。」(1944年以前)[4]
プロパガンダについて
- 「どのような種類の宣伝がより有効かといったことを決定する理論的根拠はない。望ましい結果を生む宣伝はみな良い宣伝で、それ以外の宣伝はみな悪い、たとえそれがどれほど面白そうな物であっても。なぜなら宣伝の目的は人を面白がらせることではなく、『好結果を生むこと』であるから。それゆえに一つの宣伝を目して、これを粗野だとか下品だとか野蛮だとか公正を欠くなどと批評することは見当違いもはなはだしい。なぜならば、宣伝とは自分と同じ心理を認める人を探し求めようとする行為だからである。」(1928年の知覚作用と演説についての講演)[16]
- 「宣伝はヴァイオリンの演奏と同様、誰にでも教えることのできる技術である。しかしある地点までは凡人でも到達できるが、そこから先はただ天才によってのみ成就される。」(同上)[16]
- 「プロパガンダの秘訣とは、狙った人物を、本人がそれとはまったく気づかぬようにして、プロパガンダの理念にたっぷりと浸らせることである。いうまでもなくプロパガンダには目的がある。しかしこの目的は抜け目なく覆い隠されていなければならない。その目的を達成すべき相手が、それとまったく気づかないほどに。」(1933年、ラジオ放送協会重役たちに対して演説)[17]
- 「プロパガンダの本質とは、こういってよければ芸術である。そしてプロパガンダ担当者は、言葉の最も真実の意味で、大衆心理の芸術家である。その最重要任務は、毎日毎時間、大衆の心臓に耳を寄せて、その鼓動を聞き取り、その鼓動の調子に合わせて対策を立てることにある。」(1935年)[18]
- 「もしあなたが十分に大きな嘘を頻繁に繰り返せば、人々は最後にはその嘘を信じるだろう。嘘によって生じる政治的、経済的、軍事的な結果から人々を保護する国家を維持している限り、あなたは嘘を使うことができる。よって、国家のために全ての力を反対意見の抑圧に用いることは極めて重要だ。」
マルクス主義について
- 晩だ。ぼくは窓辺に立ち、リヒャルトはそのかたわらにあるぼくの大きな肘(ひじ)掛け椅子に坐って講義をしている。かれはマルクス主義について語る。それにしても、すべてがなんと合理主義的であることか。マルクス主義というのは、純然たる金銭と胃袋との学説だ。生きた人間がひとつの機械であることを、既定のことと見なすのである。だから、マルクス主義は間違っており、現にある生活とは無縁で、頭で考え出されたものであって、自然に生え育ったものではない。理論においては論理的だが、実践においては非論理的だ。
- それによって解決されることの、なんとわずかであることか! 幅広さの精神であって、深さの精神ではない。そして、われわれの苦しみにそんなものが何のかかわりがあるだろう?[19]
- マルクス主義もまた、実践のうえでは同じ様相を呈している。
- 汝の持てるものを貧者に分かち与えよ。これがキリスト。
- 財産は窃盗である──それがわたしのものでないかぎり。これがマルクス。
- キリスト社会主義者、それは、そこいらの社会主義者たちが同情心なり国益なりにもとづいて行うことを、自由意思で喜んで行なうことを意味する。
- 論理的必然性 対 政治的配慮。
- 今日われわれが勝利のときまで、あるいは苦い最後のときまで戦いぬく闘争は、もっとも深い意味においては、キリストとマルクスとの闘争なのだ。
- キリスト──愛の原理。
- マルクス──憎しみの原理。[20]
- 労働者というのは階級ではないのです。階級は経済的なものに由来している。労働者はみずからの根を政治的なもののなかに持っています。労働者というのはひとつの歴史的な身分なのです。[21]
資本主義について
- 諸君はみんな、資本と資本主義とを混同しているのだぞ。資本主義は資本の濫用なのだ。資本を打倒せよ? そうじゃない、資本主義を打倒せよ、だ![22]
人種について
- 人種は、あらゆる創造的な力の土壌である。人類、そんなものはひとつの仮定だ。現実なのはただ民族だけだ。人類とは、民族の多様性以外の何ものでもない。民族は有機的である。人類は、有機的になったにすぎない。
- 有機的であるということ、それは、有機的な生命を産み出す能力をみずからのうちに蔵している、ということだ。
- 森とは、樹木が多数あることにすぎない。
- ぼくは、民族を滅ぼして人類を維持することなど出来ない。同じように、森を大切にするために樹木を根絶やしにすることなど出来るものではない。
- 樹木、それが全体としては森と呼ばれる。
- 民族、それが全体としては人類と呼ばれる。
- 樫の樹が力強く育てば育つほど、それはますます美しく森を飾るだろう。
- ある民族がどこまでも民族であればあるほど、それはますます生きいきと人類に奉仕する……。
- これ以外のものはすべて、頭で考え出されたものであって、自然に生え育ったものではない。だから、それは歴史に耐えることができない。[23]
人物評
[編集]- 「彼は、それなくしてはベルリンの状態を処置することができない二つの特性を持っている。すなわち一つは知性であり、他の一つは雄弁である。」(1926年のゲッベルスのベルリン大管区指導者任命についてのアドルフ・ヒトラーの言葉)[24]
- 「ゲーリングやヒムラーやボルマンと違って、彼は毎日の出来事にある程度距離を置くことができた。彼は自己中心的でもなく、臆病者でもなかった。彼はヒトラーに自分の考えを述べた。戦争を終えるべきだと考えた時もそうだった。私から見ればゲッベルスはプロパガンダの天才だった。ヒトラーが彼を作ったように、彼がヒトラーを作った。まさしくそう言えると思う。彼は非常に複雑な性格だった。そして完全に冷淡だった。国家社会主義の最もおぞましい部分、つまりドイツのユダヤ人に対する政策は、彼が推進力になった。」(1979年、アルベルト・シュペーア)[25]
- 「ゲッベルスとゲーリングは、もちろん陰謀もめぐらしてはいたが、粗暴ではなかった。この二人は非常に知的だった。ただゲーリングは堕落していた。けれどもそれはもしかしたら病気のせい、モルヒネ中毒のせいかもしれなかった。もう知るすべもないが。ゲッベルスは腐っていなかった。ただ恐ろしいほどに危険な男だった。」(1979年、アルベルト・シュペーア)[26]
- 「彼は反ユダヤ主義の最も強硬な代表者だった。彼はマスメディアを利用して反ユダヤ主義的な報道をすることが、権力者になる大きなチャンスと思っていた。彼がユダヤ人に対して根深い憎悪を抱いていたかどうかは疑問だ。彼はいい加減な日和見主義者なので、何に対しても、好意的ないし敵対的な根深い感情など持たないと思う。(略)シュトライヒャー(ゲッベルスと並んで反ユダヤ主義プロパガンダで知られる人物)はゲッベルスと比べれば従順だった。シュトライヒャーは半分頭がおかしいだけだが、一方ゲッベルスは不道徳で狡猾で危険だった。ゲッベルスとはいかなる議論もできない。ゲッベルスには誠意のかけらもないので議論しても無駄なのだ。」(空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング。ニュルンベルク裁判で拘禁中にアメリカの精神分析医レオン・ゴールデンソーンに語った言葉)[27]
- 「私は、一次大戦で鉄十字章をもらったユダヤ人はニュルンベルク法から除外すべきだと提案したが、却下された。ゲッベルスは、ユダヤ人は自分達とは違うと思っていた。あるいは少なくとも、そう主張していた。彼は大嘘つきなので内心ではどう思っていたのか、私にはわからない。あの頃、私とヒトラーののつながりは政治の面では強かったが、個人的な面ではヒトラーとゲッベルスのつながりのほうが強かった。私とゲッベルスを比べると、ヒトラーとの関係で違っていたのは、私は会議でヒトラーとよく話したが、ヒトラーは夜通しゲッベルス一家とともに過ごしたという点だ。ヒトラーとゲッベルスの結びつきは強く、おそらく私が思っている以上に、あの脚の曲がった狂信者から政治の面でも影響を受けていたのだろう。」(ヘルマン・ゲーリング。同上)[28]
- 「非常に頭が切れるが、信用は置けない。」(カール・カウフマン)[29]
- 「ヒトラーとゲッベルスの関係には、たとえばヒトラーとシュペーアの関係がそうであったほど、個人的な感情が認められませんでした。ヒトラーはゲッベルスに感心し、彼を評価していました。けれどもそこに親しげなニュアンスはなかったのです。ゲッベルスが女優を口説くために、しばしば自分の地位を利用していることをヒトラーは知っていました。これはヒトラーの気性にまったくそぐわないことでした。」(ヒトラーの女性秘書トラウデル・ユンゲ)[30]
- 「不思議なことだが、ゲッベルスは私が二回目に『デア・シュテュルマー』(シュトライヒャーの反ユダヤ主義新聞。下品な論調で知られた)紙を禁止しようとしたとき、手を貸してくれた。私が何げなく言った言葉に同意してくれたからではないだろうか。「『デア・シュテルマー』のせいで我々の対外的面目は丸つぶれになりますよ。敵は『デア・シュテルマー』をコピーさえすればいいのだから。」私のこの言葉にゲッベルスは間髪いれずに賛同し、『デア・シュテルマー』の禁止を私と共同で提案してくれた。私はゲッベルスをかばっているわけではないし、弁護してるわけでもない。彼は思いやりも良心もない狂信者だった。ただ私はこの興味深い事実を指摘しておきたいだけだ。」(宣伝省ラジオ局長ハンス・フリッチェ。ニュルンベルク裁判で拘禁中にアメリカの精神分析医レオン・ゴールデンソーンに語った言葉)[31]
- 「彼は、人々を興奮の恍惚状態に陥らせる術を心得ていた。彼は嘘の名人で、冷笑家だった。そしてナチ党の全幹部の中できっと一番知的で、一番雄弁であっただろう。」(従軍記者ベルト・ネーゲレ)[4]
脚注
[編集]- ↑ 西城信訳『ゲッベルスの日記』(番町書房)37ページ
- ↑ 西城信訳『ゲッベルスの日記』(番町書房)40ページ
- ↑ 西城信訳『ゲッベルスの日記』(番町書房)42ページ
- ↑ 4.0 4.1 4.2 『ヒトラーの共犯者 上』46ページ
- ↑ 西城信訳『ゲッベルスの日記』(番町書房)183ページ
- ↑ 『現代教養文庫419 ヒトラーとナチス 第三帝国の思想と行動』(社会思想社)104ページ
- ↑ 西城信訳『ゲッベルスの日記』(番町書房)82ページ
- ↑ 『ヒツトラーの新外交政策 ナチス・ドイツの全貌』 - 清川逸郎 著 (昭和11年)
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上』29ページ
- ↑ 『第三帝国と宣伝 ゲッベルスの生涯』107ページ
- ↑ 『現代教養文庫419 ヒトラーとナチス 第三帝国の思想と行動』(社会思想社)55ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上』63ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上』27ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上』65ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上』71ページ
- ↑ 16.0 16.1 『第三帝国と宣伝 ゲッベルスの生涯』71ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上』30ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上』35ページ
- ↑ 池田浩士訳『ドイツ・ナチズム文学集成《1》ドイツの運命』ミヒャエル―日記が語るあるドイツ的運命(柏書房)21-22ページ
- ↑ 池田浩士訳『ドイツ・ナチズム文学集成《1》ドイツの運命』ミヒャエル―日記が語るあるドイツ的運命(柏書房)89ページ
- ↑ 池田浩士訳『ドイツ・ナチズム文学集成《1》ドイツの運命』ミヒャエル―日記が語るあるドイツ的運命(柏書房)127ページ
- ↑ 池田浩士訳『ドイツ・ナチズム文学集成《1》ドイツの運命』ミヒャエル―日記が語るあるドイツ的運命(柏書房)31ページ
- ↑ 池田浩士訳『ドイツ・ナチズム文学集成《1》ドイツの運命』ミヒャエル―日記が語るあるドイツ的運命(柏書房)124ページ
- ↑ 『第三帝国と宣伝 ゲッベルスの生涯』59ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上』31ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上』90ページ
- ↑ 『ニュルンベルク・インタビュー 上』105ページ
- ↑ 『ニュルンベルク・インタビュー 上』110ページ
- ↑ 『第三帝国と宣伝 ゲッベルスの生涯』39ページ
- ↑ 『ヒトラーの共犯者 上』55ページ
- ↑ レオン・ゴールデンソーン著『ニュルンベルク・インタビュー 下』101ページ
参考文献
[編集]- ヨーゼフ・ゲッベルス(西城信訳)『ゲッベルスの日記』 (番町書房、1974年)
- グイド・クノップ著、高木玲訳、『ヒトラーの共犯者 上 12人の側近たち』、2001年、原書房、ISBN 978-4562034178
- レオン・ゴールデンソーン著『ニュルンベルク・インタビュー』(河出書房新社) 上・ISBN 978-4309224404、下・ISBN 978-4309224411
- ロジャー・マンヴェル 、ハンリヒ・フレンケル(樽井近義・佐原進訳) 『第三帝国と宣伝—ゲッベルスの生涯—』(東京創元社、1962年)
- ゲッベルス「ミヒャエル―日記が語るあるドイツ的運命」池田浩士訳(『ドイツの運命――ドイツ・ナチズム文学集成(1)』柏書房、2001年) ISBN 978-4760120659